同盟通信 NO.112 (2006.1.11)

NO.112(2006.1.11) 

=「人の隠居の時と臨終と全く同じ」(学林研究書13巻、観心本尊抄聞書・ 四〇七頁)、「隠居して名跡を其の子に譲れば、此の世の者に非ず」(同・日 硯聞書・七三一頁)との寛師の言に、日顕は反逆した。=

 元旦の丑寅勤行に、客殿には隠居座が東側に置かれた。しかし、前机が日如 の大導師座に向けられているにもかかわらず、日顕は、ひたすら御本尊に向か う。日如に合掌して向かい合ったのは、五座を終えて、三ツ葉を切る、題目三 唱前の最後の時だけ。

 宗門に二つの日が昇った。日如と日顕とである。

 三日の決起大会では、御本尊に向かって右側に日顕、左側に日如が陣取った。 各登壇者は、こぞって日顕に「御威光・御威徳・御英断のたまもの」と、讃辞 することを忘れなかった。“日顕讃嘆大会”かと思うほど。「家に二の主あれ ば、其の家必ずやぶる」(報恩抄・全集二九四頁)との御聖訓どおり、宗門は 自界叛逆の修羅道をひた走る。

 この客殿の隠居座は常備するという。これは、奉安堂にあっても同様である。 決起大会の日、初回の御開扉に日顕は臆面もなく、その老醜をさらした。広宣 流布を破壊しただけではあきたらず、日顕は宗門そのものをブッ壊す、最後の 仕上げに入った。

 日如は、既に昨年、宗内に向けて「当面は平成二十一年に向け、地涌倍増と、 その結集の方針に従う」と、二十一年以降に向けての意欲を表明している。一 方の日顕は、C作戦で、20万人来ると皮算用した判断に狂い、今また隠尊と いう本来の身の処し方に狂い、「日如は平成二十一年までだぞ」との野望をあ らわにする。

 死ぬまで諍いの渦中にいないと気がおさまらない日顕の性グセで、俄然面白 みを増してきた。日顕は、現法主の日如に対し、謀反へと舵を取った。退座二 年前には徒党を組むなと指南し、その舌の乾かぬ一昨年八月には、日顕チルド レンを結束させるために「徒弟会」を立ち上げた。そして今年の元旦には、蓮 葉庵に山内の日顕チルドレンを集め、こまかく供養会を取り、三日には書院を 貸し切って、正信会に似た圧力団体全国「徒弟会」を開き、日顕に新年のあい さつをする形でその勢力を誇示した。

 「徒弟会」の張本人たる八木日照と小日顕(信彰)は、前法主を現法主と崇 めているとしか思えない。隠居の身であれば、高橋信興の居住する雪山坊を使 うべきであったろう。狭いというのであれば、日顕チルドレンの住む総二坊、 広布坊をなぜ使わぬのか。ここに、阿部家で宗門を支配し続ける野望が明白に なったのである。

 何よりも、公職に就く八木と小日顕が、隠居日顕を頭目とする日顕チルドレ ンの会合に出ている。なめられたものだ。八木・小日顕のこの姿は、現法主の 上に前法主を置くという秩序づくりに乗り出したことを意味する。

 宗務行政のトップを弟子と息子が占め、山内教師の五人に四人は、日顕チル ドレンである。毎月、六日から十五日までの十日間は蓮葉庵にいると公言した 日顕の狙いは、山内のチルドレンを引きつけておくためだ。法華講総講頭には、 柳沢ザルをそのまま置き、信徒も押さえたと、日顕支配の布石は完壁と、満足 しているのだろう。

 そして何よりも、日如を産み落としたのはワシだ、とキング・メーカー気分 で酔いしれ、血脈の不断に備えるという大義がワシにはあると、ほくそえんで いるに違いない。実に不遜なじじいである。

 重ねて言う。日顕は、引退したのである。臨終し、此の世の者ではなくなっ たのである。隠居とは、そういうことであることを忘れまい。日如は今、日顕 を持ち上げることで、日顕を膝の上に乗せたつもりであろうが、背中におぷさ られ、肩に乗られ、ついには頭の上に乗られて、小便をひっかけられることも あるのだ。「そこばくの檀那・弟子、並びに小女、処女等をのみ食いしなり」 (撰時抄・全集二七九頁)の日顕の狂宴に、日如がいつまで耐え、こらえられ るか。

 「決起の年」とは、日顕一族の野望決起の始まりとなったことだけは間違い ない。 

(憂宗護法同盟員より)

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