新・改革通信 NO.25 (2005.11.19)盗座日顕、遂に逃座!負け犬・日顕の哀れな末路(4)

山崎が自らの証言を覆すまでの、不可解な九年間の空白
日達法主が亡くなる直前に本山に来るように指示した僧侶の中に「阿部 師の名前は出ておりませんでした」と証言していた山崎が、日顕に擦り 寄って全く正反対の証言を始めた。『慧妙』(平成十五年九月一日付)
「そして、大宣寺さんやお仲居さん(※現在の妙縁寺・光久御住職)に、 翌日・二十二日は御山にいるよう、仰せられました。 私はその夜、猊下の御健康上の重大な事柄ですから、いちおう総監さん (※現・阿部日顕上人)には転院する経過をきちんと報告しておこう、 と思って、お電話したんです。その時に、総監さんは『そうですか。ど うもご苦労様です。私も明日、猊下から御山へ来るように言われていま す』と、おっしゃっていました」

山崎は平成六年十二月に本山・理境坊の壇徒となった。そして、翌七年 二月十六日付け『慧妙』に「私が〝御相承〟を拝信するに至るまで」と いう勿体ぶった題名の文章を寄せている。

ここで不可解なことは、〃日顕も本山に呼ばれていた〃という重要な証 言が、『慧妙』に載ったのが、平成十五年であるということである。 最初の山崎の文章が掲載されてから、実に九年あまりの空白があるのだ。

山崎は平成三年二月二十五日に収監され、平成五年四月二十七日に仮出 獄するが、その翌月から日顕に「密書」を送っている。問題はその内容 である。この「密書」の中で山崎は自分が週刊誌に書いた記事について 以下のように、日顕に脅しをかけているのだ。

「書いた内容は、調査で判明した亊実の四割にすぎません。のこりは、 反論や、名誉毀損の訴えがあったときにそなえ、手の内にとっておいた のです」「私の書いた手記は、簡単に、抽象的な否定行為で消せるよう な内容のものではありません。仮に私がそれをすれば、正信会サイドか ら、私の裏切りに対する非難だけでなく、残りの六割の資料によるきび しい反論が行われるでしょう。内藤国夫や文春は、その際、正信会サイ ドの肩を持ち、宗門と学会の紛争は脇に追いやられ、御相承問題がむし かえされて、学会を利するだけの結果を招きかねません」

間違いなく、山崎は昔の屈辱を忘れていない。だから、自分が優位に立 つために、日顕に脅しをかけ、九年間にわたって、日顕を揺さぶり続け たのであろう。「修羅と悪竜と合戦ひまなし」である以上、今後も一方 が倒れるまで続く。 (続く)

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