新・改革通信 NO.49 (2006.03.30) 権力にしがみ付く日顕の「誇大妄想」につきあわされ、自滅していく、時代遅れの宗門(上)

権力にしがみ付く日顕の「誇大妄想」
につきあわされ、自滅していく、時代遅れの宗門(上)

あまりの腰の痛さに耐えきれず退座してしまった日顕は、今頃になって辞めなければ良かったと残念がっているようだ。退座しても権力を失いたくない日顕は、元旦に自分の弟子を集め「徒弟会」を行った。その席上で、日顕は平成二十一年の信徒倍増について、「ついつい言ってしまったけれど、できるかな?」と口を滑らした。宗門は日顕の言葉を「大聖人の遺命」だと強調してきたが、それが単なる思い付きでしかないことを本人が白状してしまった。

この日顕の発言は、日顕が如何に無責任であるかだけでなく、その言葉を鵜呑みにして、法主を祭り上げてきた宗門の体質そのものを象徴している。宗門の信徒は日顕の思いつきに振り回されているのだから、実に哀れである。

そもそも、日顕がこのような軽はずみな発言をするのは、日顕が誇大妄想に取り憑かれているからだ。「誇大妄想」というのは、現実的な状況から逸脱し、自己を過大評価したり、実際には有りもしない能力があるように思い込んでいる状態である。日顕は自分は絶対的な存在であり、自分が命令すれば、どんなことでも、信徒がやってくれるものと思い込んでいる。

しかし、実際には日顕は信心もなく力もない。日顕は、盗み取った管長の地位により、住職たちをクビにする権限を手に入れた。だから、末寺の住職は「擯斥」という恐怖から面従してきた。そして、信徒たちは、年がら年中、無理な登山と供養で疲れきっている。ところが、賛沢に溺れた日顕にはその現実を見る能力がない。日顕らは、井戸を掘れば無尽蔵に水が出てくるように、信徒がいくらでも供養すると思っているが、最早、今の信徒たちは枯れかかっている井戸だ。

今の宗門を支えているのは高齢者の信徒である。若い世代は極端に少ない。折伏も低迷している。少子高齢化はもう始まっている。今後、宗門の信徒数は減ることはあっても、増えることはない。ただ、今は高齢者のほとんどは、檀家制度の体質に慣れきってしまっているため、無自覚に供養を出し続けている。しかし、それも長くは続かないであろう。殆どが、年金生活者なのだ。

日顕らが一番恐れているのは、信徒が「大聖人の信心に目覚める」ことである。そのため、彼らは「血脈」「御生骨」などの神秘性を盛んに宣伝し、信徒の信仰を坊主に従属させようと必死である。しかし、昨今、坊主のみだらな行為がニュースで報じられることが多くなり、「衣の権威」は失われつつある。

ましてや、創価学会の宗教改革により、目覚めた民衆にはもう、そんな子供騙しは通用しない。(続く)

前へ<< >>次へ

>>新・改革通信 目次へ
>>トップページへ