新・改革通信 53 (2006.06.14) 「伽藍仏教」と化した日顕宗の終焉(一)

「御影堂」と「三門」を間違えた「御供養趣意書」の杜撰さ
宗門は四月二十八日付けで、立正安国論七百五十年記念事業の一環である御影堂改修についての「御供養趣意書」を、信徒用も含めて宗内に発送した。ところが、二十九日になって急遽、〃この「趣意書」を回収する〃との連絡を流した。そのため、宗内には〃もしかしたら、供養が中止になったのではないか〃という期待感が漂った。
しかし、そうではなかった。翌三十日、宗門は「趣意書」の回収の理由として、文面の中に御影堂に使われた材料について述べた箇所である「今日では入手不可能な富士山の巨木を用いて」の部分が間違いであり、それを削除するためであるとする文書を宗内に配布した。
これは明らかに、「御影堂」と「三門」を間違えたものである。「三門」は徳川家宣が富士山の巨木七十本を寄進して作られたものである。つまり、「入手不可能な富士山の巨木を用いて」建てられたのは「御影堂」ではなく、「三門」である。一体、誰が間違えたのか。全くもって恥ずかしい。実に初歩的なミスである。
〃「安国論七百五十年」の行事だ。一世一代のチャンスだから供養しろ〃と散々、騒いでおきながら、「供養趣意書」にこのような初歩的なミスをする。あまりにも杜撰である。つまりこれは、供養を出させることが先にあって、その理由を後からつけたことを物語っている。供養を出させるためなら、伽藍であれば「三門」でも「五重塔」でも、何でもいいということなのだろう。
 しかも、この「趣意書」の回収を命じた文書には、「御影堂」と「三門」を間違えたことには一切、触れていない。沽券にかかわるからだ。そして、日如らは、こんな初歩的なミスを犯した文書を宗内に残せば、後世の恥になると恐れたに違いない。その証拠に、五月三日に再度、「趣意書」の回収を指示したファックスを末寺に流すという念の入れようであった。

釈迦仏法は、時代を経るごとに形骸化し、「大集経」に説かれた「後の五百歳」の中の多造塔寺堅固に至って伽藍仏教と化した。仏法が力を失い、人々を伽藍でしか惹きつけられなくなったのだ。大聖人は、民衆救済を忘れた伽藍仏教に対して、「堂塔・寺社は徒に魔縁の栖と成りぬ」(御書全集 一四四一頁)と厳しく破折されている。
日顕は登座以来、自分の名を残すために「魔縁の栖」に心を奪われた。そして、日如もそのあとを継承している。宗門は大聖人から破折された「魔縁の伽藍仏教」と化している。(続く)

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