新・改革通信 NO.59 (2006.7.16) 御本仏が「立正安国論」に示された衆生救済の御心までも食い物にしようとする諂曲日顕宗は破仏法、破国の根源

七月十六日、御本仏日蓮大聖人は文応元年(一二六〇)のこの日に宿屋入道を介して鎌倉幕府の前執権で北条得宗家の長、最明寺入道・北条時頼に立正安国論を提出された。
日蓮大聖人の御事跡は、「立正安国論」に始まり、「立正安国論」に終わると言われる通り、「立正安国論」は、末法の一切衆生を救済せんとする御本仏の大慈大悲を余すところなく示された一大御述作と拝することができる。
まずは御本仏の御高恩に報恩の誠を捧げて、この一文を始めたい。

多くの日本人にとっても、日蓮大聖人といえば、「南無妙法蓮華経」と「立正安国論」であり、教科書にも記載されて、一般世間でもよく知られている。
そうしたことを利としてか、これを好機とばかりに宗門も数年後に控えた、「立正安国論」七五〇周年へ向けて、種々の法要や記念事業を計画して、躍起になっている。しかし、「東海随一」と謳われた大石寺の五重塔も、他宗で建設中の五重塔にそのお株を奪われることになりそうである。
宗門屈指の碩学であられた第五十九世の堀日亨上人は、「現在の宗門で、学会以外に、取るものがあるかね。学会を排除する宗門は、忌むべきである」と喝破されたことがあるが、堀上人の正視眼、先見性がまたひとつ現実のものとなろうとしている。

日顕は大御本尊を偽物と鑑定し、世紀の大殿堂である正本堂と大客殿を破壊し、虚仮おどしの奉安堂、客殿が取って代わり、今また五重塔まで他門の追随を許し、絶対無謬と叫んだ法主は、腰が痛くて退座した。
信徒が激減している日顕宗は「記念局」なるものを設置して大法要、総登山、倍増大結集、整備事業、出版事業と派手な花火を打ち上げた。
更に「特別御供養趣意書」を配布して分け前に預かろうと狙っているようだ。趣意書では、御影堂、宿坊の改修に関して強調し、「私達僧俗の責務」と気炎を上げ、またぞろ供養の押し付けで法華講員から搾り取ろうとしている。

これまで、種々の法要、法華講の各種行事などでは、数の上でも、規模の面でも他派日蓮宗にも全く太刀打ちできていない宗門だが、ゴマスリ、日顕の御用聞き総講頭・柳沢某らとの茶番劇で法華講員を締め上げ、六万塔、広布坊、客殿、奉安堂などでちゃっかり供養をせしめてきた。
日顕らの行跡は「持律に似像して少く経を読誦し飲食を貧嗜して其の身を長養し袈裟を著すと雖も猶猟師の細めに視て徐に行くが如く猫の鼠を伺うが如し」と大聖人が「立正安国論」に引用された涅槃経の文そのものである。
特別供養の理由が、またもや地震対策となっているが、もともと大石寺周辺は、その名の示すとおり硬い岩盤の上に建っており、登山会の始まった頃、地下水を汲み上げる専門家が音を上げるほどだったのを、戸田第二代会長が叱咤激励して、ついに汲み上げることに成功したというのは有名な話だ。当然、対策を施すに越したことがないのは当然だが、安直な理由付けにそろそろ講員も気づき始めている。

「立正安国論」の末文で御本仏が一切衆生を救済せんと叫ばれた「唯我が信ずるのみに非ず又他の誤りをも誡めんのみ」との御心を心として、折伏行を現実に実践してきたのは間違いなく創価学会であり、今やその版図は世界百九十カ国・地域にまで及び、数多くの民衆が事実の上で大聖人の仏法の恩徳に浴している。
よく知られていることだが、「立正安国論」では、「国」の字に「囗(くにがまえ)」に「民」の字を多く用いられているが、多くの民衆が正法に目覚め、広宣流布、平和社会を実現するために日々戦いを進める姿を大聖人が願われた証左であり、それを現実に現した創価学会の功績は計り知れない。

そもそも、日顕宗では「立正安国論」の字句を叫んでも、精神を学ぶことはなかった。まして、大聖人の御心を実現するための実践など皆無といって良い。こう言うと丑寅勤行云々と反論してくるのであろうが、現実には、僧侶たちは「当番だからやる」と言い、法主も平気でサボっていたというのが実態である。
また、平成三年八月の行学講習会で、非教師の高校生、大学生を前に「立正安国論」を講義した日顕は、「髪を被(かぶろ)にする者」とのくだりで、「エヘッ」と笑いながら、「お前たちにはこれは分からないだろう」「昔、花魁というのがおってだな」などと得意げに花街談義を展開したことがあった。未成年者もいる講習会で、法主ともあろう者が語る内容ではないことは勿論のこと、「立正安国論」の講義において語られるべきものではない。これが日顕なのである。

宗内、法華講諸氏には、徒に小さな自己に籠り、無意味な保身に走ることなく
「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」
「唯須く凶を捨てて善に帰し源を塞ぎ根を截つべし」
「悪侶を誡めずんば豈善事を成さんや」
との御本仏の御教示に身を照らされんことを祈るのみである。
恐れるのは地震などではない。大聖人のお怒りをこそ恐れよと訴えて結びとしたい。

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