新・改革通信 NO.73 (2007.07.16) 「七万五千登山」は”地涌倍増”の放棄。日如は、日顕の敗北を歴史にとどめ、日顕の「除歴」を確実にしようとしている

 宗門は、大聖人が「立正安国論」を提出してから七五〇年目にあたる平成二十一年に、本山整備事業、法華講の倍増、そして、七万五千人の登山を行うことを発表した。

 当初、日顕は平成二十一年までに、法華講の倍増と大結集の二つの目標を掲げていた。それを聞いた住職たちの大半は、平成十四年の三十万結集の倍の「六十万登山」を想定し、絶対に無理だと考えていた。

 ところが、昨年、日如は「大結集は”年間を通して何人集めること”ではなく、”特定の日に、一か所に多くの人が集うこと”だ」と言い出し、「七万五千人の登山」が決定した。

 しかし、これでは、目標を掲げた日顕の立場から言えば、”地涌倍増の放棄”であり、”敗北宣言”に等しい。

 ゆえに、反早瀬家の「慧妙」は、信徒倍増を掲げた日顕を守るため、”七万五千人の登山が、六十万折伏の具体的な「相」”などと、屁理屈を書いている。なぜ、七万五千人の結集が、六十万折伏を達成したことになるのか。全く意味不明である。どう言おうと所詮”地涌倍増”ができないことを前提にした言い訳である限り、敗北を認めているようなものである。


阿部ファミリーを牽制する日如
 日如は「倍増」に触れるたびに「日顕上人より承った御命題」と枕詞をつけていた。日如にしてみれば、”倍増の言い出しっぺは日顕である”と言いたいのであろう。”創価学会コンプレックスの日顕の戯言に付き合うほど、俺はバカではない”というのが日如の本音に違いない。

 そして、日如は「七万五千人登山」という決定により、暗に不可能な目標を自分に押し付けた日顕を牽制し、無難な数で登山会を成功させ、自分の地位を守るという路線を引いたのである。

 また、「立正安国論」提出七五〇年記念の事業を推進するため、宗門は「記念局」を設置し、六月五日、その記念局の委員会が開かれた。その模様が「大白法」に掲載されている。

 その委員会の席上、日如は「地涌倍増の闘いがもうひとつ気がかり」と発言している。総監の八木も「一番気がかりなのは『地涌倍増』であります」と同じような発言をしているが、この二人の胸中はまったく逆であろう。

 おそらく、早瀬は内心で、”こんな非現実的な目標を立てたのは、一体どこの馬鹿小僧だ”と日顕の一番弟子の八木をなじり、八木は八木で”責任逃れをして、あんたは日顕猊下の顔に泥を塗るつもりか”と噛み付いているに違いない。

 この時点では、八木は日如のことを”ツナギの法主”ぐらいにしか、見ていなかったであろう。やがて日顕の弟子の時代が来ると、阿部ファミリーは信じている。


阿部ファミリーの衰退ぶりを示した宗会議員選挙
 ところが、この会合の直後、彼ら阿部ファミリーが驚愕することが起こる。六月十二日に臨時宗会が行われ、議長選挙を含む宗会議員選挙が行われた。結果は、前議長の細井珪道と元議長の土居崎慈成が同票で、僧階上位ということで土居崎が議長に就任した。

 この選挙では、日達門下の「妙観会」の勢力の台頭を恐れた日顕が、”細井を議長にするな!”と自分の弟子に激を飛ばし、その意向を受けた娘の百合子などが水面下で動いたとの噂である。

 日顕の思惑通りに細井は議長になれなかったが、同時に日顕の予想外のことが起こった。宗会議員選挙では現職が全員、立候補したが、三名が落選した。その三名の中に日顕の直弟子の藤本信恭と菅原信法が含まれていたのである。

 選挙の結果、当選者は早瀬系が五名、細井系が五名、日顕系が三名、その他が三名という内訳になった。日顕の弟子は宗内の最大派閥を形成しているにもかかわらず、二名が落選して少数派に転落したのである。

 この結果を見て、日顕が怒鳴りまくったことが宗内に伝わっている。こんなにも早く自分の影響力が落ちるとは、日顕も思っていなかったということだ。

 この選挙の結果は、日如にとって、二重の意味で吉報となった。まず一つは、日達法主の長男であり、「妙観会」のトップである細井珪道が議長になれなかったことは、早瀬系の「法器会」の対抗勢力である「妙観会」の弱体化につながる。そして、もう一つは、日顕の直弟子の現職の二人が落ちたことは、宗内に阿部ファミリーの影響力に陰りがさしてきたことを、思い知らせることになる。

 この選挙の結果を受け、早瀬は平成二十一年の七万五千登山で区切りをつけ、日顕の亡霊を追い払い、自分中心の宗門を構築しようと決意したに違いない。

 結果として、「七万五千登山」は日顕の”地涌倍増”を放棄し、日顕の敗北を歴史に留めることになる。日顕の赤恥は後世に残る。そしてそれは同時に、日顕の除歴をまた一歩、確実なものにするのだ。

 いずれにしても、今の宗門に「立正安国論」提出七五〇年目の意義を宣揚する資格などない。

 宗門は戦時中に国家権力を恐れて「神札」を受け、「立正安国」の精神に背いた。その宗門を救ったのは「今こそ、国家諫暁の時」と戦った牧口会長と戸田会長である。

 創価学会の存在があればこそ、宗門は辛うじて、大聖人違背の罪を逃れることができたのである。その大恩ある創価学会を破門した宗門は、自ら再度、大聖人の御心に背いたのである。その罪は歴史に刻まれるだけではなく、時が経てば経つほど、より明確になっていくのである。(編集部)

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