新・改革通信 NO.81 (2007.12.26) 日蓮正宗の「再生」の道を放棄した日顕の大罪! 創価学会出現以前の宗門は、「死に体」だった(五) [日蓮正宗改革同盟]

「隠尊料」問題で新聞沙汰に
 文部省の調停により、日蓮正宗の法主の座をめぐる争いは終えたかのように思えたのだが、今度は日柱法主の「隠尊料」問題が浮上した。
 隠尊料は調停合意の時点では、現金三千円と白米七十俵であったが、三月八日の相承の後で、現金一千円と白米二十五俵に減らされたと、ある「正法擁護会」の者が暴露してしまったのである。
 当時の『朝日新聞・静岡版』(大正十五年三月三十一日)には、以下のような見出しが出ている。
「むし返された大石寺の紛議」
「妥協案を守らぬとて前管長派が怒り出す」
 また、新聞には「前管長に対する待遇」として、以下のように掲載されている。
一、御隠尊料として大石寺より金三千円を呈上する事
二、糧米として大石寺より玄米七十表を呈上する事
三、御隠尊所として新築住宅を呈上する事
 
 日顕も退座にあたり、隠尊料をもらっているのであろうか。約十億円をかけて改築された世田谷の豪邸もこの慣例にしたがっているのであろうか。だとすれば、金銭的取引の血脈だけは、滔々と受け継がれていることになる。


権力抗争の裏で腐敗堕落していた宗門
 創価学会出現以前の宗門は、猊座をめぐる派閥争いに終始していたが、それだけではなく、その裏で僧侶の腐敗堕落が進行していた。
 まず、日如がその血を引いているという、五十六世日応に関する新聞報道があるので、紹介する。
 『静岡民友新聞』(明治四十一年十月二日付)
「日応の人となり」
元来大石日応は人も知る如き色魔にて東京に妾を置き又大宮(注・今の富士宮)其他附近に出でては飽くまで不品行を恣にして恥ぢぬ程の者にて檀家一千名に上り名だたる大寺に居りながら一万円にも及べる借財に今は困む身となりて退職して後任の大学頭を選任し不埒にも借財の尻を此際有耶無耶に葬らんと考へ(以下略)
 説明を加えると、日応が妾を囲うなどの遊興で使った一万円は現在の一億円に相当する。


日開は、書類送検された者を法主として選んだ
 近代の法主の中には、単なるスキャンダルだけではなく、背任罪に問われて書類送検された者もいる。日開が相承した日隆がそうである。『読売新聞』(昭和五年十二月二十九日付)の見出しが衝撃的だ。
「宗務総監が妾ぐるひで背任」
 記事には「日蓮正宗の本山富士大石寺宗務総監である本所区向島小梅町常泉寺住職水谷秀道師(五六)」とはっきりと記載されている。
二十六日水谷師は『背任罪』として一月四日の御用始めに一件書類を東京地方検事局に送ることになった。同師は二年前常泉寺住職となり、続いて本山の宗務総監になったが以来、前記待合を根城として、僧侶の身分を忘れて豪遊し、浅草公園の芸妓紋弥こと、諸岡はつ(二一)を落籍して外妾として囲ひ寺有財産約九千円を費消したほか約三万円の手形を乱発していた破戒行為を同署椎名刑事に探知されたものであるが(以下略)
 この水谷が浪費した、当時の三万九千円は、今の一億円に相当する。
 日応にしても、この日隆にしても、その浪費した金額は、今の「一億円」という、巨額なものだ。要するに、宗門の異常な腐敗堕落は、明治の時代から始まっていたということである。


日亨法主の宗門改革を邪魔した役僧たち
 五十九世に就任した日亨法主は、この権力闘争に明け暮れる宗門の改革を必死に目指した。しかし、『告白』に「昨年の宗制改正案について自ら七八の新案を参考に提出せしも起草委員又は宗務職員又は評議員等が其中の重大案までも殆んど黙殺せる」とあるように、役僧たちがその改革を阻止したのである。
 日亨法主は、本山の役僧たちが自分たちの利益にしか興味がないことに呆れ果てた。それよりも、念願の御遺文集を作ることに専念したい――『告白』には退座の大きな理由として、「二三十年必死と念願せし編纂著作の聖業も泡沫と散り失する如何にも死んでも死にきれぬ残念さである、此が先づ大々主因である」とある。
 
 日亨法主は隠尊後、『富士宗学全集』の発行、『御書』編纂に全精力を傾けられ、本来、秘伝である相伝書を公開した。それは、誤った法主が相承を神秘化し、それを権威にして宗内僧俗を従わせることが今後も起こる。否、広宣流布が近づけば近づくほど、必ず、そういう事態が起きると予見していたからであろう。
 念願の『御書』の編纂では宗内の援助は乏しく、戸田会長を中心に、学会が全面的に協力をして完成した。当時の宗門は、『御書』の編纂よりも、戦時中、軍部に供出して、なくなっていた「梵鐘」作りを優先していた。情けない話である。
 ある時、日亨法主は戸田会長に言った。「あなたが、四百年前に生まれてきていたら、日蓮正宗はこれほど滅びはしませんでしたろう」と。また、「戸田さん、あなたがいなかったら日蓮正宗はつぶれていたよ」と述べたこともあった。
 この当時の宗内の猊座をめぐる権力闘争の内幕と腐敗堕落ぶりを知れば、この意味はよく分かる。まさに、日蓮正宗は自力では蘇生できない「死に体」だったのだ。(続く)

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