新・改革通信 NO.88 (2008.06.30) シンガポールのニセ寺院問題、第二弾。 日如の発言だけでなく、八木の発言も改ざんされていた! すべての責任を信徒に負わせようとする日顕宗の非道!!

 前号で報じた通り、宗門はシンガポールの事務所を「寺院」と発表しているが、シンガポールでは、正式な寺院と認められていない。
 その証拠に、『大白法』(四月一日付け)に掲載されている日如の話には「寺院」という言葉が出てくるが、シンガポールの壇徒機関誌には「寺院=Temple」という言葉が訳されていない。
 
 順を追って見ていくと、まず、日如の「本宗における寺院とは、それぞれの地域における大法弘通の法城として、その意義と目的のもとに建立されるものでります」という言葉の
 
「本宗における寺院」は「Nichiren Shoshu facilities」となっている。
 
 これでは「日蓮正宗の施設」という意味になる。この「facility」は「設備、施設、機関」という意味でしかない。
 引き続き、日如は「寺院が建立されることは、それだけ、その国の正法弘通が進み、一歩一歩、確実に広宣流布に向かって前進している証でもあります」と述べているが、
 
ここの「寺院」も、やはり、「Nichiren Shoshu facilities」となっている。
 
 さらに、日如は、「今回、シンガポールにおいて、広布山開妙院が正式に山号・院号を公称し、板本尊をお迎えして、名実共に寺院としての活動を開始するに至ったことは、まさにその表れであります」とあるが、
 
 「「名実共に寺院としての活動を開始」が「the commencement of its function, both in name and in fact.」と英訳されており、「名実共にその(開妙院)の活動の開始」と、寺院(temple)という言葉が訳されていない。


八木の発言も改ざん
 この時の八木の挨拶も『大白法』に掲載されているが、その八木の話も改ざんされている。
 八木は、「日蓮正宗開妙院として正式に日蓮正宗の寺院となり、総本山大石寺の末寺となりました」と述べているが、
 
 「正式に日蓮正宗の寺院となり、総本山大石寺の末寺」が「an official Nichiren Shoshu facilities belonging to Head Temple Taisekiji」となっており、これでは「本山の大石寺に所属する正式な施設」という意味になる。
 
 要するに、シンガポールでは正式に登記された寺院ではなく、あくまでも「事務所」なので、英語では「寺院=Temple」という言葉を使うことはできず、「施設=facilities」としてあるのだ。
 日本では「寺院が出来た」と宣伝して、シンガポールでは「施設」と言っているのだから、悪質なごまかしである。法主が二代続けて「詐称」で、寺院も「詐称」とは、何ともお粗末な話ではないか。


壇徒に「寺」と言わせて、責任逃れする悪坊主たち
 「宗門では、寺院にはTempleという言葉は使わない」などという子供だましは通用しない。現に、壇徒の機関誌では、法人の役員である某信壇徒が「Temple」という言葉を使っているのだ。
 この壇徒の「経過報告」の中に、以下のように、三回も「Temole」という単語が出てくるのだ。
 
 「the wooden Gohonzon Enshrinement Ceremony at the first temple in Singapore」
 「in the management decision in the building of this temple」
 「This temple is the fortress of the True Law」
 
 日如と八木の言葉には「temple」という言葉は使われていないのに、なぜ、壇徒の言葉にはそのまま「temple」という言葉が使われているのか。
 すなわち、シンガポールで正式に認められていない施設を「寺院」と呼べば、当局から咎められる可能性があるということだ。だから、当局の目から逃れるために、日如と八木の言葉は改ざんされている。
 そして、その代わりに壇徒に「temple」という言葉を言わせて、体裁を整えようとしている。日如らは壇徒の身に危険が及ぶのを承知で、利用しているのだ。何という非道なことをするのか。これが日如らの正体だ。
 
 この宗門の保身を図ろうとする体質は、戦前の「神札事件」から、まったく変わっていない。常に彼らは自分たちの保身に汲々として、信徒を犠牲にしてきた。
 今の宗門にとって、信徒は利用するものでしかない。だから、彼らは、プレ大会でも、信徒の身の安全を無視した無謀な輸送計画で、結集を図り、自分たちは豪華なホテルに泊まり、庶民の手に届かない高級料理を堪能している。
 まさに彼らの非道ぶりは、僣聖増上慢の「人間を軽賤する」行為であり、必ず、その報いを受けることであろう。(編集部)

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