新・改革通信 96号 (2009.02.11)”死ぬに死ねない”日顕の事情。信彰の暴力に、日顕の弟子一期生が反乱。信彰を次期法主にしようとする日顕の野望も崩れる!宗内全体が成り行きを見守っている

 すでに「同盟通信」等で報じられているが、網走・得成寺の住職・里内信徳が庶務部長の阿部信彰から暴行を受けたとして、十二月十八日、富士宮署に被害届けを提出した。

 里内は、得成寺檀徒からの投書により、本山に呼び出され、阿部信彰から査問を受けた。その際に、感情的になった信彰が机を蹴り上げて、それが里内の身体に当たった。

 里内は痛みがひどく、いつまでも腫れがひかないので、病院に行ったところ、「左腰打撲、内出血、左腰蓋骨骨挫傷で約一ヶ月の安静、加療を要する」と診断されたというのだ。

 庶務部長という要職にある者が、このような暴力事件を起こすとは、恥ずかしい限りであるが、なによりも、その当事者の信彰に何の咎めがないということが重大な問題であろう。

信彰に咎めがないことは、日顕が宗門を私物化している証拠
 どんな理由があっても、実際に住職に怪我を負わせたのだから、信彰に対して何らかの処分があって当然である。

 なぜ、信彰は何の咎めを受けることがないのか。それは、単純明快で、日顕の息子だからだ。

 今の宗門は、完全に日顕に私物化された「日顕宗」である。だから、孫の正教は、得度した年に問題を起こして下山処分を受けたが、還俗を逃れた。このことは、宗門人で知らない者はいない。

 そして、娘の百合子や政子が高級マンションを所有していたことが発覚しても、表立った問題にならずに済んでしまった。

日顕の弟子の反乱は日顕にとって大きな脅威
 今回の事件で、宗内の僧侶が一番、驚いたことは、信彰を告発したのが、他ならぬ、日顕の弟子の一期生であるということだ。

 日顕の弟子の中心者は信彰である。日顕は信彰を次期法主にして、それを自分の弟子が支えるという野望を持って越洋会を作った。

 ところが、自分の弟子の一期生がその日顕の野望を揺るがしたのだ。

 里内の告発ほ、実は、氷山の一角である。信彰の暴力体質は日顕譲りであるが、日顕の弟子の中で、信彰の暴力の犠牲になった者は少なくない。特に、信彰の寺に在勤した所化たちは、日常的に殴る・蹴る、の暴力を受けてきた。

 日顕は自分の弟子が信彰を支えると勝手に思い込んでいるようだが、日顕の弟子の多くが信彰を嫌っている。
 里内の告発がそれを証明している。

前法主に違輩する前例を作ったのは日顕
 日顕が今、心配していることは、もし、信彰以外の者が次期法主になった時のことである。

 日顕は法主になった途端に、大奥から始まって、前法主の建立した建物を次々に破壊し、日達法主の功績を悉く、消し去った。

 その悪事に対して、日達法主の弟子らは深い恨みを抱いている。

 同じことを次期法主が行い、自分の功績がすべて破壊され、遂には歴代から「除歴」さるかもしれないと、日顕は自分で作った前例に怯えているに違いない。

 そのような悪夢を防ぐには、息子の信彰を次期法主にするしかない。ところが、その信彰が自分の弟子に対して、暴力事件を起こしてしまった。自分が生きている間なら、信彰をかばうことができるが、もし、自分が死んでしまえば、どうなるかわからない。信彰が今回の暴力事件のために、次期法主候補からはずされる可能性もある。

 また、何とか信彰が法主になったとしても、果たして自分の弟子たちが信彰を支えていくのか。

今回の自分の弟子の反乱で、日顕は不安を感じはじめている。
 だから、日顕は死ぬに死ねないのだ。

「差別」と「服従」しかない宗門
 宗門は「差別」と「服従」で成り立っている。

 日顕が弟子に暴力を振るうのは、弟子に絶対服従を強いるためである。そこに、真の師弟はない。だから弟子たちは日顕のことを陰で「クソジジイ」となじる。

 また、信彰が後輩に暴力を振るうのは、兄弟子である自分に服従をさせるためである。日顕の弟子の世界の上下関係は、「法臘」に基づいた差別で出来上がっている。

 彼らには師を求める向上心も、広宣流布への息吹も、同志愛もない。彼らが常に考えているのは、”相手が自分より上か、下か”だけである。自分より上であれば、服従を装う。自分より下であれば、支配しようとする。

 そして、その延長に、「僧俗差別」がある。信者は僧侶に服従し、僧侶の生活を支えるだけの存在でしかない。

 大聖人は「此の十法界は一人の心より出で八万四千の法門と成るなり、一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し」(御書 五六四頁)と仰せであるが、宗門の世界はこの対極にある。

 その元凶は日顕であり、宗門は日顕を手本として、差別の世界を作り上げている。その先にあるのは、「自界叛逆」でしかない。

 今回の日顕の弟子の反乱は、その始まりである。宗内全体が、この成り行きをかたずをのんで見守っている。
 (編集部)

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