新・改革通信 102号 (2009.06.30) 死ぬに死ねない”日顕の事情(五) 尾を引く”信彰問題” 日顕親子の過剰な反応がかえって致命傷となり、信彰 の次期法主の可能性は限りなくゼロに!

 ”何としても信彰を次期法主に”という日顕の我欲の業報ゆえか、信彰が法主になる可能性がどんどん低くなっている。

 信彰が得成寺の里内を査問した際に暴力を振るった、”信彰問題”。きちんとした対応をしていれば、大きな問題にならなかったかもしれないが、事件は急転し、里内が「擯斥処分」になった。

 暴力を振るった加害者の信彰が「停職十日」で、暴力を受けた被害者が「擯斥処分」とは、誰にも説明できない話である。

 宗門側は、里内が信彰を「告訴」したことを問題にしているが、そもそも、信彰がきちんと里内に謝罪をして、それなりの処分を受けていれば、当然、告訴にまで発展しなかっただろう。

 加えて、信彰は宗内外の批判を封じるために、自分の処分を自分で宗内に知らせるという異常な手段を使った。しかも、その処分が「停職十日」という非常に軽いものであった。その十日も、ゴールデン・ウィークをはさんでおり、実質的には数日のものでしかない。

 普通なら、役職辞任が妥当であろう。なぜ、このようなことになったのか?そこには、日顕の意向が働いているとしか考えられない。何としても信彰を次期法主にしたい日顕からすると、信彰の役職辞任は絶対にあってはならないことだ。

 なぜなら、かつて、日顕の父・日開がある事件で能化から降格され、法主候補からはずれ、時間かせぎに堀日亨上人を法主に仕立てたことがある。だから、絶対にそういう事態は避けたいのだ。

 また、信彰には”自分は元法主の息子だから、何をしても許される”という、傲慢さがある。だから自分の処分を自分で発表するという、社会性を全く欠如した行為に走るのだ。

 今回、日如は日顕親子の意向を受けた形にしておきながら、結果として、日如の思う壷である。なぜなら、こういう不公平な処分をすれば、”信彰問題”はさらなる話題になり、信彰を次期法主候補からはずす言い訳となるからだ。日如は巧みに日顕親子を自爆の方向に誘導したことになる。

 いよいよ、日顕親子と日如のかけひきが激しくなるであろう。今回の問題で信彰は致命傷を受けたことになる、その状況を如何にして変えるか。もちろん、簡単なことではない。だから、日顕は死ぬに死ねない事情がまた一つ増えた。(編集部)

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