新・改革通信 NO.108 宗門の存在意義を揺るがした、創価学会の御本尊授与 宗門にとって致命傷だから、過剰に反応する! [日蓮正宗改革同盟]

日蓮正宗が不当に創価学会を破門にして、本年で二十年。また、明年は我々、日蓮正宗改革同盟並びに青年僧侶改革同盟が腐敗堕落した宗門の改革のために、大石寺を離山して二十年目となる。

この大きな節目に、宗門の邪義を破折するため「新改革通信」を読者の便宜を考えて、体裁を新たにして発行する運びとなった。

引き続き、断末魔の叫びをあげる日顕らにとどめをさしていく所存である。

日寛上人御書写の御本尊を「ニセモノとはいえない」
という宗門の僧侶たち
現在、創価学会が行っている本尊授与の形式を宗門が非難することはできない。それは、かつては、宗門も本山ではなく、東京の末寺が寺宝である有縁の法主の本尊を印刷して信徒に授与していたからである。 

今回の宗門事件で日顕が創価学会に対して、御本尊を授与しないと言い出し、御本尊を、信徒を脅かす手段にしてきた。

その卑劣な行為に対し、日蓮正宗改革同盟並びに青年僧侶改革同盟は、改革同盟に所属する小山市・浄圓寺に格護されていた日寛上人御書写の本尊を授与することを決議し、創価学会に申し入れしたのだ。

だから本山・理境坊の小川只道のように、宗門の歴史を知る者は、日寛上人御書写の本尊を「にせものとは言えないが、許可がない」という言い方になるのだ。

「許可」という権威を失えば宗門の存在意義は
なくなり、分裂が起こる
 結局、彼らが言えることは「許可がない」ということだけだ。しかし、宗門は創価学会を破門にし、「関係ない団体」と言いだした。「関係がない」と言いながら、困ると関係があると言いだす。まるで、駄々をこねる子供のようだ。

 創価学会が本尊を授与すると、なぜ、宗門は困るのか。なぜ、「許可」にこだわるのか。それは、彼らの権威が失われ、宗門の存在意義さえ、疑われるからだ。

 すなわち、宗門の「許可」という権威が失われれば、歴代法主の本尊を所持している寺院は、将来、宗門から離れても、完全に独立できるようになる。そして、権威だけで末寺を束ねている宗門は、いとも簡単に分裂してしまう。

ニセ法主に「許可」をもらう必要などない
 そもそも自己申告で猊座を盗んだ日顕に、「許可」をもらうなど、盗人に頭を下げるようなものだ。

日達法主は亡くなる直前、大奥に、娘婿の東京国立・大宣寺の菅野慈雲と当時の御仲居・光久諦顕を呼ぶように奥番に命じた。

もし、日顕が内々に相承を受けたというなら、その場に呼ばれているはずだが、実際には呼ばれていない。

しかし、日達法主は病院で、大奥に向かう前に逝去された。そのことを日顕は最後のチャンスととらえて、自分が内々に相承を受けたと言いだしたのだ。

日顕・日如を用いないことが正しい信心
 日興上人の『遺誠置文』に「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」とある。

 自作自演で法主の座を盗んだだけでなく、信徒の浄財で遊蕩に明け暮れて堕落し、信徒差別の感情から「C作戦」を企てた日顕・日如を用いないということが、正しい信心の姿である。 

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