新・改革通信 NO.112 (2011.10.19) ニセ法主が書写した本尊と、血脈を正式に受けた中興の祖・日寛上人御書写の本尊。どちらが正統か? [日蓮正宗改革同盟]

相承の証拠が何もない日顕は”ニセ法主”
以前に述べた通り、日達法主は亡くなる直前に二人の僧侶を呼び、相承をされようとしていたが、そこに日顕は呼ばれなかった。

そして、昭和五十四年七月二十二日午前五時、富士宮市の病院で日達法主が逝去した。その後、本山にて身内、関係者による読経が行なわれ、その直後、遺族に、日顕が話しかけてきた。
「あとのこと、君たち聞いてるか?」と。

後に日顕が主張するように一年前に相承を受けているというなら、なぜそのようなことを遺族に尋ねる必要があるのか。
そして午前十一時、緊急重役会議が開かれ、日顕は突然、言い出した。

「実は昨年四月十五日、総本山大奥において猊下と自分と二人きりの場において、猊下より自分に対し、内々に御相承の儀に関するお言葉があり、・・・」
 これが、日顕の「相承疑惑」の始まりである。問題は「自己申告」であるから、証人がいないということだ。

河辺メモの内容とは
 昭和六十一年十月四日の「河辺メモ」に、日顕が相承を受けたと言い出した日付に対して、光久が「四月十五日にしていいのですか。あの日は達師が忙しい日だが」 と述べたことが記載されている。その日は、日達法主の誕生日で、多忙であったため、相承を内付するという重大事が行なわれる余裕などなかったという意味だ。


「名乗り出た」と告白
さらに、日顕自身が本山の複数の僧侶の前で
「早瀬日慈さんあたりが受けているのではないかとも思ったが、待っていても何も言い出さないので、自分から名乗って登座した」と話している。

たしかに、緊急重役会議で早瀬日慈は何も言わずに、日顕が法主に就任した。後年、早瀬日慈は、「自分が我慢したから、阿部さんが法主になった」と話している。

このような証言からも分かるように、日顕は正式な手続きを経ずに自作自演で法主になった。だから、相承のない”ニセ法主”だ。法主の座を盗んだニセ法主のあとを継いだのが日如だ。日顕を除歴しない限り、永遠にニセ法主の血脈が流れるのである。

日寛上人の足元にも及ばない日顕・日如の行躰
 日寛上人は、大石寺門流の中でも「中興の祖」としてあまりにも有名である。即ち、大聖人滅後四百年の間に発生した邪義をことごとく打ち破り、当門流に伝わる大聖人の仏法の正しさを内外に宣揚され、大聖人の原点に還った正しい教学を確立された。

 また、父母の恩に報ずるために七年間で二千万遍の唱題をされ、大石寺内に「常唱堂」を建立されている。

 それにひきかえ、日顕は本山の所化小僧に対して「題目は三十分ぐらいはよいが、それ以上は多過ぎると弊害がある」などと、とんでもない指導をしていた。

日如は新宿・大願寺の住職だった時に、在勤者に殴る蹴るの暴力を日常的に行っていた。こんな似非坊主の書写した本尊と、中興の祖である日寛上人御書写の本尊、どちらが正統であるか、自明の理であろう。(続く) 

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