新・改革通信 NO.114 (2011.10.23) 僧侶のマニュアルにあるのは、数珠と墓石の開眼だけ 御本尊を数珠・墓石と同等に扱い、軽んじている宗門 [日蓮正宗改革同盟]

南無妙法蓮華経と唱えるだけの「数珠の開眼」
今回の宗門事件が起こるまで、「開眼」と言えば、宗内では「数珠の開眼」か「墓石の開眼」のことだった。御本尊の開眼など口にする者はいなかった。事実、僧侶のマニュアルである『教師必携』には、「開眼」に関しては、「数珠の開眼」しか記載されていなかった。

その作法として
「御開眼は読経唱題中に導師が数珠を両手にかけ、南無妙法蓮華経と祈念する」とある。

特別な祈念などない。これなら、誰でも出来る。”僧侶にしかできない”というのであれば、僧俗差別を作りだすための詭弁でしかない。

この「数珠の開眼」でも分かる通り、「御本尊」と「唱題」によって数珠が開眼されるのである。常に御本尊は開眼する側にあり、開眼されるものではない。

『教師必携』の改訂版に「墓石の開眼」が加筆
宗門では、墓石の開眼も行っていたが、古い『教師必携』には、墓石の開眼については何も触れられていなかった。
ところが、なぜか、平成十四年版には墓石の開眼が加筆されている。おそらく、末寺によって作法がバラバラであったから、統一したのであろう。

 結局、彼らは自分たちの特権を誇示するために「開眼」という言葉を利用しているが、マニュアルである『教師必携』にあるのは数珠と墓石の開眼であり、確たる化儀などない。

一部の御本尊を御宝前にお供えしていた日顕。
お供えしていない御本尊との違いは何か?
 宗門では、一般の御形木本尊は、何の儀式もなく、そのまま末寺に配送されていたが、板御本尊と常住御本尊だけは、日顕が導師をしている時に、御宝前にお供えしていた。

 もし、この「お供え」が「開眼」というのなら、これこそ、誰でもできることである。また、お供えした御本尊とお供えをしていない御本尊との違いは何か?

彼らは、日蓮大聖人が「一切経の眼目」と仰せの御本尊を差別して扱っているだけだが、お供えしない本尊でも宗門では通用するのだから、ただの形式に過ぎないということだ。

化儀を悪用して、僧俗差別を作りだす宗門
 化儀とは、仏が衆生を教化するための方法のことである。儀式もその一つであるが、今の葬儀・法要などは、江戸時代の檀家制度によって生まれたものである。その実態は、供養搾取の手段となっている。

 彼らが突然、言い始めた「本尊の開眼」は、数珠や墓石の「開眼」と同じで、僧侶の特権を作りだすための儀式となっている。そして、彼らにとって「儀式」とは信徒支配の道具なのである。

 大聖人の仏法における化儀の根本は”御本尊を拝す”ことである。

日蓮大聖人云く
「此の御本尊全く余所に求むる事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」と。
胸中の御本尊を「明鏡」たる御本尊に映し出して拝す。そこに、誰かが介在する必要などない。(続く)

前へ<< >>次へ

>>新・改革通信 目次へ
>>トップページへ