新・改革通信 NO.118 (2011.11.03) 大石寺の観光地化を阻止するために始まった登山会(1) 法主の住まいはバラック、所化の素人芝居で人集め

 戦後間もない頃の宗門がどんな状態にあったか、また、どのような経緯をたどって登山会が始まり、今日の宗門があるのか。戦後の生き証人であった渡辺慈済住職の証言を掲載する。

渡辺慈済住職の証言

法主の住まいはバラック
私が得度したのは、昭和二十四年。当時の本山は、今日からは想像もできないほど困窮しており、貧乏寺そのものだった。

昭和二十年六月十七日に起きた大石寺の火災で、大奥、書院、客殿等を焼失。

 約六百坪がポッカリ焼け落ちてしまった。それに追い打ちをかけるように戦後の農地改革の波である。大石寺の土地は、戦前三十一万八千坪あったものが、わずか五万一千坪になった。六分の一に激減である。

 昭和二十三年十一月に客殿は再建されたが、御影堂は雨漏りがし、五重塔はさらに状態がひどく、雨が降り込んでくるほど傷んでいた。当時の日昇上人の住まいも、バラックというありさまだった。

食糧を確保するために所化が土地を開墾
 大坊でも、今の客殿前の広場となっているところに、わずかばかりの田んぼが残った。しかし、耕すにも近くの農家は馬を貸してくれず、道具だけ借りて、当時の所化七人が馬代わりになって働いた。近所の檀家の人々は「七頭だて!」と笑って見ているだけで、手伝ってはくれない。お仲居まで加わり、皆泥だらけになっての作業だった。

 先の見通しも明るさもなく、苦労と貧乏の時代だった。

「総本山法華講」を発足しても誰も足を運ばない
 檀家はというと、自分たちの生活が手一杯で、大石寺のことを考えるどころではなく、本山からすっかり遠ざかっていた。檀家を、どうやって大石寺に参詣させるか。さまざまに議論、検討された。そこで浮上したのが、「総本山法華講」を発足させることであった。昭和二十五年、大聖人御聖誕の意義を刻む二月十六日に、御誕生会を兼ねて発足式を行った。

 八月のお盆と、二月の誕生会の時に総会を持ったが、檀家の人たちは足を運ばない。一つの対策として、浪花節語りとか漫才師などを呼んで、”客寄せ”に使った。しかし、これはお金のかかることでもあり、自前の芝居を打つことになった。この出演者に、我々所化小僧も駆り出されることになったのである。

所化の素人芝居で客集め。五百人がやっと集まる
 二十五年八月のお盆の時の集まりでは、「佐渡の御難」という題で劇を行った。

 この時、客殿には、法要の時に集まったのは二百八十人ほどだったが、劇の時には五百人に膨れ上がった。芝居の”客寄せ効果”はあったわけだが、手を替え品を替え、懸命になって集めても、五百人集まるのが精一杯の寂れた田舎の貧乏寺だったのである。  

大石寺の観光地化が浮上
 そうしたなかで、大石寺復興の目玉として計画されたのが”観光地化”であった。二十五年十一月のことである。背に腹は替えられぬとはいうものの、明らかに間違った選択だった。信心もしない人を大石寺に参詣させて、その人たちが落とす金を狙うことは、謗法の布施を禁じた宗旨に違背することは明白であった。これでは、京都や奈良の他宗寺院と何ら変わらなくなる。

 この誤った道に堕ちるところを、辛うじて踏み止まらせてくれたのが、学会の戸田先生であった。 (続く)

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