新・改革通信 NO.123 (2011.11.13) [勤行編(2)]戦時中に改変された観念文 創価学会出現以前、末寺は方便・自我偈の勤行

昔は末寺も方便・自我偈の勤行だった
 渡辺慈済住職や大橋正淳住職の証言によると、昭和初期、創価学会が誕生する前までは、末寺では朝の勤行しかしていなく、しかも、五座ではなく、方便自我偈ですましていたとのことである。

 また、創価学会が出来る前は、信徒は勤行をしていなかったが、学会員が五座、三座の勤行をするようになったので、末寺もするようになったというのである。

 五座・三座の勤行はあくまでも本山の化儀だったということだ。

信徒が勤行をするのを知って驚いていた宗門の僧侶たち
 また、渡辺慈済住職は次のように証言している。
「学会が出来る前は、信徒は勤行も折伏もしていなかった。ところが、牧口先生が創価学会を作り、勤行、折伏、御書の勉強まで始めた。宗門の僧侶たちは驚き、”自分たちで勤行したり、法門を勉強する変な講ができた”とか、”そんな講が大きくなると困る。自分たちの仕事が無くなる”と悪口を言っていた」

 すなわち、”信徒が勤行し、御書を勉強すると自分たちの仕事がなくなる、供養が入らなくなる”という僧侶の信徒に対する嫉妬こそが、宗門事件の本質である。

戦時中に宗門が改変した観念文には、歴代もなく、
南無は大聖人にしかついていない
 宗門は昭和十六年八月二十二日付に「御観念文制定ニ関スル件」と題する「院達」(院二一七六号)を出した。そこには「御観念文ハ従来種々ノ様式アリタルモ今回別記ノ如ク制定候條御了知ノ上所属檀徒ニ徹底普及方御配慮相成度候也」とある。以下、その時に制定された観念文である。

(初座)「謹ミテ皇祖天照大神皇宗神武天皇肇国以来御代々ノ鴻恩ヲ謝シ併セテ皇国守護ノ日月天等ノ諸神ニ法味ヲ捧ゲ奉ル希クハ哀愍納受ヲ垂レ給ヘ」

(二座)「現当一切救護・妙法ノ曼荼羅・本門戒壇ノ大御本尊、御報恩謝徳供養ノ御為ニ」

(三座)「久遠元初・内証本仏・南無日蓮大聖人、大慈大悲・御報恩謝徳供養ノ御為ニ 血脈付法ノ大導師・御開山日興上人、御報恩謝徳供養ノ御為ニ第三祖閻浮の御座主・新田卿阿闍梨日目上人、御報恩謝徳供養ノ御為ニ」

(四座)「奉祈念我等弘法ノ誠意九天ニ達シ、一天四海広宣流布・天長地久・官民一致・国威増輝ノ為ニ。某過去遠々劫現在万々之謗法罪障消滅、現当二世大願成就之」

(五座)「日本国中当門信仰ノ面々・内得信仰ノ面々・各先祖代々之精霊、追善供養菩提ノ為ニ。某先祖代々の精霊、追善供養ノ為ニ。乃至法界平等利益自他倶安同帰寂光。」

 宗門は創価学会が観念文から日目上人以降の歴代を削除したことや、僧宝である日興上人に「南無」がついていないと、難癖をつけている。

 しかし、この昭和十六年に宗門が制定した観念文では大聖人へ御報恩謝徳は三座にあり、日興上人には「南無」がついていない。そして日目上人以降の歴代法主の名もない。

 しかも、初座では梵天帝釈を削除し、「皇祖天照大神皇宗神武天皇肇国以来御代々ノ鴻恩ヲ謝シ」とある。これは、宗門が軍部に迎合した動かぬ証拠である。

 更に「院達」には、二座も長行なしの方便品と自我偈でもよく、二座と三座、また四座と五座を併せて、各一座として行ってもいいと書かれている。

 宗門の主張は常に僧俗差別の感情から生まれている。”信徒の分際で観念文を変えた”というのが彼らの本音である。その姿こそ、道門・僣聖増上慢である。(終わり)

前へ<< >>次へ

>>新・改革通信 目次へ
>>トップページへ