新・改革通信 NO.130 (2012.03.10)創価学会出現以前の宗門の「秘史」(三) 70数年前は、全国75ケ寺、住職52名の田舎教団

昭和十四年、三割の寺院が兼務・無住だった
 多くの檀徒は、今の本山の姿が昔から続いているという錯覚をしている。
 今回の宗門問題の本質を理解するためには、まず、創価学会が誕生した当時の宗門の実勢を知る必要がある。

昭和十四(一九三九)年末現在の文部省宗教局調査
日蓮正宗と日蓮宗各派との勢力の対比

① 寺院数
日蓮正宗    七五
日蓮宗各派合計 四、九六二

② 住職数
日蓮正宗   五二名
各派   四、四五一名

③ 信徒数
日蓮正宗 四〇、二〇九名
各派 一、三一八、五二一名
(昭和十七年版『毎日年鑑』)

この一覧からわかるように、日蓮正宗は身延派と比べると、本山とは呼べないほど、小さな教団であった。
 しかも、七十五ケ寺に対して、住職は五十二名であるから、二十数ケ寺、三割が兼務・無住であったことがわかる。
宗門では、今でこそ、「御法主上人猊下」という大げさな呼称を使っているが、七十数年前の宗門では、「法主」と言っても、田舎寺の、たかだか五十数名の住職の代表でしかなかったのだ。

「法主」という呼称は、もともと宗門にはなかった
 かつて、池田名誉会長が日顕のことを「日顕上人猊下」と呼んだことに対して、日顕はわざわざ、池田名誉会長を本山に呼び出し、
「どうして『御法主上人』と言わないのだ!」
と怒りだしたことがある。
 しかし、日蓮正宗ではもともとは「貫主」「上人」という呼称を使い、「法主」という呼称はなかった。
その証拠に、明治二十一年に身延派が、「貫長」を「大法主」と呼称すると言い出した時に、大石寺は猛反発しており、当時の「興門唱導会雑誌」に、以下のような記述がある。
 「法主さえ尚恐れあるべし、況んや大の字を加えしにおいてをや」
 このように、「貫主」を「法主」と呼ぶことを批判していたのだ。
 なぜなら、「本因妙抄」に
「仏は熟脱の教主某は下種の法主なり」
とある通り、当時の宗門では「法主」は大聖人を指す言葉であったからだ。


日蓮正宗の僧侶は身延派にコンプレックスを抱いている
 日顕がなぜ、池田名誉会長に「どうして、御法主上人と言わないのだ!」と怒ったのか? 
 その日顕の感情の裏側にあるのは、劣等感である。
わかりやすく言えば、成り上がりの者が、実力と人徳のある者に抱くコンプレックスである。
日顕もそうだが、昔の宗門を知る日蓮正宗の僧侶には、”自分たちは弱小教団だった”という劣等感が染み込んでいる。
日顕らが小僧の時、身延派は合計で約五千カ寺・五千名の住職、宗門は七十五カ寺五十二名の住職、身延派からはまったく相手にされていなかった。
寺院や住職数だけではない。創価学会が誕生する前の宗門には、身延派のように、御書もなかったし、研究書の類もわずかしかなかった。
そんな弱小教団が、創価学会の誕生により、大教団に発展したが、謙虚な気持ちなどない日顕らは、慢心の”成り金坊主”となってしまったのだ。(続く)

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