新・改革通信 NO.142 (平成30年8月22日)渡邉慈済住職の証言ー日蓮正宗と創価学会の初期の交流・本山編(1)

戦前・戦後の本山の状況
昭和14 年の文部省宗教局調査による日蓮正宗と日蓮宗各派との勢力の対比を見ると、
寺院数は日蓮宗各派が4,962 寺、日蓮正宗は75 寺。
教師(住職)数は、日蓮宗各派が4,451 名、日蓮正宗が52 名である。
寺院数が75に対して住職数が52ということは、23の寺が無住か兼任だったことになる。
戦後の本山の状態については、『日蓮正宗落日の真因』に次のように書かれている。
昭和20年6月17日に起きた大石寺の火災で、大奥や書院、客殿等を焼失。現在の客殿や大書院がある一帯、約600坪がポッカリ焼け落ちてしまった。
それに追い打ちをかけるように戦後の農地改革の波である。
私が得度した時は大石寺の土地はすっかり取り上げられ、戦前31万8千坪あったものが、わずか5万1千坪になった。
6分の1に激減である。
昭和23年11月に客殿は再建されたが、御影堂は雨漏りがし、五重塔はさらに状態がひどく、雨が降り込んでくるほど傷んでいた。
当時の猊下であった日昇上人の住まいも、バラックというありさまだった。
「バラック」とは、空地や災害後の焼け跡などに建設される仮設の建築物のことで、「粗末な建物」を指す言葉である。
 法主といえども、住むところは粗末で、風呂も近くの檀家の風呂を借りることもあったという。


所化の小僧が馬代わりとなって、畑を開墾
本山の貧しさについて、同著に以下のように書かれている。
 農地改革で、大石寺は多くの土地を失ったため、食糧を確保するには、残っている士地を開墾する以外にない。
 大坊でも、今の理境坊の西側、客殿前の広場となっているところに、わずかばかりの田んぼが残った。
 しかし、耕すにも近くの農家は馬を貸してくれず、道具だけ借りて、当時の所化7人(渡辺慈順、角田実道、能勢昭済氏ら)が馬代わりになって働いた。
 近所の檀家の人々は「7頭だて!」と笑って見ているだけで、手伝ってはくれない。お仲居だった吉田義誠(日勇)氏まで加わり、皆泥だらけになっての作業だった。
 来る日も来る日も開墾や農作業ばかり。先の見通しも明るさもなく、苦労と貧乏の時代だった。

戦後の貧しかった本山を復興させたのは誰か?
それは法華講ではなく、創価学会である。
宗門は創価学会から、約100 万坪の本山用地を寄進されている。
すなわち、今の本山の土地のほとんどが創価学会からの寄進なのである。
 また、創価学会から寄進された寺院は356カ寺で、現在の寺院数の半分を超えている。創価学会の存在がなければ、今の宗門はない──これは歴史的な事実である。(続く)

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