新・改革通信 NO.150 (平成30年10月1日) 渡邉慈済住職の証言―日蓮正宗と創価学会の初期の交流・末寺編(4)

御形木御本尊の授与書きと開眼について
 前号で紹介した通り、戦前・戦後の宗門では、東京の末寺がそれぞれ、有縁の法主の本尊を印刷して信徒に授与していた。それでは「開眼」はどうしていたのか? 渡邉住職は証言している。

 ここで大事なことは各寺で下附した御本尊様には、授与書が全部省いています。それは常住御本尊様には必ず「誰々に授与す」と書写されていますが、御形木様は誰に授与されるか分かりませんので授与書きは当然省きます。
 まして御本尊様の開眼など、誰も見たり、聞いたりしたことはありません。時の法主が、先師の御本尊様を開眼するなど、日蓮正宗の歴史の中には、一人もおりません。
 例えば「日蓮大聖人の御本尊様を次の日興上人が御開眼しなければ、拝めない」など絶対考えられない僻見であります。「日蓮が魂を墨に染め流して書きて候ぞ 信ぜしめ給え」のお教え通り、書写された御本尊様をそのまま拝むことが肝要なのです。(手記より)

 本尊が印刷された本紙の状態で授与され、自分で表具屋に頼む場合は、表具屋も色々で、他宗の本尊を真似た表装などが問題になり、その都度、宗門で表具屋を認定するようになった。もちろん「開眼」などしていない。というより、宗内に「開眼が必要」ということを言う者など誰もいなかった。また、本山が東京の末寺がすることにいちいち口を出すことはなかったのだ。

昭和41年まで続いた日寛上人の御形木御本尊
 昭和34年11月、日達法主が登座したが、昭和41年までの約6年間、日寛上人の御形木本尊の授与が続けられた。
 日達法主は、日寛上人の御形木本尊があるのだから、わざわざ書写しなくてもというお気持ちであったと聞いている。そして、昭和41年から日達法主の書写した御形木本尊が授与されるようになったが、本尊の印刷は、引き続き、法道院内の「仏書刊行会」で行われていた。本尊の管轄が法道院から本山に移ったのは、日顕の代からである。

 

なぜ、東京の寺院は影響力を持つようになったのか?
 昔は、本尊のことだけでなく、宗内の様々なことが末寺中心であった。葬儀のやり方など様々な化儀はその寺の住職によって異なり、後年、化儀を統一するために『教師必携』が作られた。
 その背景にあったのは、末寺での得度制度であった。本山での年分得度制度(12歳からの得度)が出来たのは、日達法主の時代で、それ以前は末寺の住職のもとで出家する末寺得度であった。
 ここから、自然に有力寺院を中心とした派閥が出来上がり、多くの弟子を持つ東京の寺院は影響力を持つようになったのである。ところが創価学会が誕生し、信徒の急激な増加により、僧侶を増やす必要が出てきた。そこで、日達法主の時代より、本山で一括して得度する年分得度制度が出来上がった。
 この年分得度制度により、僧侶はすべて当代の法主の弟子となり、末寺の派閥が解消されていったのだ。(相承編に続く)

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