新・改革通信 NO.151 (平成30年10月3日) 渡邉慈済住職の証言―日蓮正宗と創価学会の初期の交流・相承編(1)

宗内の派閥問題
 前号で宗門の末寺得度制度により生まれた宗内派閥に触れた。渡邉住職の証言の中に、相承問題で寂日坊に根回しに来た日昇法主のエピソードがある。
 昭和31年1月、日昇上人が勇退の意向を明らかにされた時、次期法主候補者としては、中島日彰、大石日進、高野日深、堀米日淳の四人の能化がいた。当時は選挙で管長を決めることになっていたが、中島氏や大石氏は高齢や体が悪かったことで、実質的には高野、堀米両氏の一騎打ちとなることが予想されていた。
 日昇上人としては、総本山を戦後の疲弊の極から復興・興隆させたのは学会の力によるものであり、学会の信心と折伏によってこそ広宣流布が進むことを確信されていた。両氏のうち、学会を理解していたのは、もちろん堀米能化である。
 私の父は、高野氏とは若い頃からの無二の親友であり、塔中にも、全国の末寺に対しても影響力を持っていたので、高野氏擁立の動きをしないよう、日昇上人が説得に来られたわけである。(『日蓮正宗落日の真因』より)
 ここに「当時は選挙で管長を決めることになっていた」とある。この背景を補足する。


派閥争いが激化した「日盛法主失踪事件」
 戦前の宗門では、「蓮葉庵系」と「富士見庵系」の2つの大きな派閥があり、この派閥が法主を巡って争っていた時代がある。
 蓮葉庵は、塔中坊の一つで開基は日霑法主である。富士見庵は、日英法主が隠居所として使っていた坊である。「蓮葉庵系」は52世日霑法主の法系であり、「富士見庵系」は51世日英法主と53世日盛法主の法系である。
 この頃に、宗内を騒がせたのが「日盛法主失踪事件」である。これは大石寺で起きた火災により、その責任を問われ、時の法主・53世日盛が、失踪した事件である。そのため隠居していた日英法主が再び登座した。しかし、高齢のため、わずか1カ月で辞意を表明し、日霑法主が再び登座することになった。
 『日霑上人伝』には日英法主が再度登座した時のことを、「是に於いて衆檀会議の上、英師御再住の事に決し予を迎ふ」と説明している。「衆檀会議」すなわち、僧俗会議で次期法主が決められたことが明記されている。
 また、本来であれば、6月に、日盛法主の「代替り法要」が執り行われる予定であったが、日盛法主は5月に失踪してしまった。すなわち、日盛法主は、「代替り法要」も経験せず、また、誰にも相承することなく退座した法主になる。
 日霑法主と日盛法主の確執は非常に深く、日顕はある僧侶に、「日霑上人は日盛上人を歴代から除けと怒っていた」と語っていたという。(続く)

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