日蓮正宗問題研究3 – 信徒欺く法主絶対の虚構
(7)法主の堕落が宗風を破壊

 宗祖日蓮大聖人から一切の法を受け継ぎ、現在の総本山大石寺を開いた第二祖日興上人は、後世の門下に対する戒めとして26箇条の「日興遺誡置文」を定め残されました。

 これは宗門僧侶にとって、自らの信心、行体などすべての規範とすべき最も重要な御文であります。その「日興遺誡置文」には、日蓮門下の在り方として次のような遺誡の文があります。

一、謗法を呵責せずして遊戯雑談の化儀並に外書歌道を好む可からざる事。
(謗法を破折するという修行をしないで、遊戯雑談などをして遊び暮らしてはならない)

一、未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事。
(この正法が世界に流布するまでは、身命を捨てて、力の限り弘通にいそしむこと)

一、先師の如く予が化儀も聖僧為る可し。
(先師日蓮大聖人のごとく、我が門下は、だれ人からも尊敬されるような聖僧でなければならない)

 これらの遺誡置文に明らかなように、日蓮正宗僧侶は、「少欲知足」を旨とし、民衆の幸福のために法の弘通にすべてをささげていくことが、本来の姿なのであります。この遺誡を門下に厳命された日興上人の跡を継ぎ、一門の大衆の模範たるべく、僧俗の中で最も質素で自らに厳しくあらねばならないのが、法主としての日顕氏の責務でありました。しかるに、恥ずかしながら、これまで述べてきたように、当の法主が堕落し宗風を破壊してしまったのが偽らざる現状なのであります。

 しかし、「法主絶対」の宗門にあっては、そうした法主の堕落に疑問を呈することさえ憚られるようになってしまったのです。

 私たち僧侶が、日顕法主の非を糾弾する所以は、この宗開両祖の教えを断じて虚妄にしてはならないという一点にあるのであります。