新改革通信 第170号 令和6年11月28日 日本の仏教にとって創価学会の出現こそが宗教改革であった

新改革通信 第170号 令和6年11月28日

日本の仏教にとって創価学会の出現こそが宗教改革であった

●僧侶が信徒に一方的に「破門」を通告することは〝反大乗的な出来事〟

1991年11月28日、日蓮正宗が創価学会に「破門通告書」を送り付けた。この日を創価学会は「魂の独立記念日」と呼んでいる。宗門は「僧侶が上」と主張し、まさに信徒を隷属させてきた。創価学会は破門により、その隷属から独立できたのである。
僧侶が信徒に一方的に「破門」を通告することができると考えること自体、信徒差別の体質の上に成り立っている証左であり、〝反大乗的な出来事〟と言える。
僧侶が上という極めて硬直化した仏教に対して、「大乗仏教」では出家と在家は仏陀となることを目指す「菩薩」として同一視された。大乗経典には「出家菩薩」と「在家菩薩」という言葉が出てくる。出家と在家はどちらも菩薩として位置づけられている。本来の大乗仏教の出家と在家の関係では、出家が在家を一方的に破門することは起こりえないであろう。

●封建体制下の日本の仏教により〝僧侶が上〟という僧俗差別に慣らされてきた日本人

今の日本の仏教は江戸時代の「檀家制度」の影響を受け、どの宗派でも僧侶が読経して、信徒が布施をするという形態を作り上げてきた。日本の仏教は大乗仏教であるが、小乗部派の考えを採り入れ、実態は、極めて日本に限定的な封建時代の御用宗教と言えるものである。
日本人はこの檀家制度の「僧侶が上、信徒は下」という差別に慣らされてきたとも言える。だから、多くの日本人が〝檀家は寺を支え、僧侶を養うもの〟と言われても違和感を抱かない。そして僧侶たちも葬儀・法要で金銭を得て生活するということが常態化されており、生きている人を救うことは二の次である。仏教系の新聞・雑誌の紙面は〝いかにして寺院が生き残るか〟とか〝信徒を囲い込むための新しい墓地の形態〟などの記事であふれている。

●僧侶以上に実践する創価学会の出現が、日本の仏教の宗教改革であった

何度も触れてきたように、創価学会が出現する以前の宗門では、信徒は勤行や折伏をせず、教学を学ぶことがなかった。他宗と同じように、僧侶が葬儀・法事を行い、信徒はそれに対して金銭的な供養をするだけであった。
また、当時は入信した信徒は寺に所属するのが通例であったが、牧口初代会長は「創価教育学会」を設立し、勤行・唱題に励みながら、独自で活動した。そして牧口会長自ら、地方を回り、「座談会」を行って折伏を断行した。御書に「されば此の世の中の男女僧尼は嫌うべからず、法華経を持たせ給う人は一切衆生のしう(主)とこそ仏は御らん候らめ」(四条金吾殿女房御返事)とあるように、僧俗を超えた実践をする創価学会は一切衆生を救う主であった。そして創価学会の〝折伏行〟は宗門だけではなく、日本の仏教界全体における宗教改革運動であったのだ。

●人々の苦しみに寄り添った創価学会の偉大さを認めた日蓮宗の僧侶

日蓮宗の宗会議員で川口市・実相寺の住職である松永慈弘氏が今年の3月15日付の『中外日報』に、〝人々に寄り添う教団の出現の意義〟について述べた寄稿を載せている。
「新宗教を御利益で釣るレベルの低い宗教として、下に見る雰囲気が日蓮宗全体としてあったようです。違うのです。新宗教はお釈迦様や日蓮聖人がなさったように、一歩一歩人々の中へ足を運び、その悲しみに耳を傾け寄り添い、共に悩み、法を説き一人一人を救っていったのです。入信した会員は、お題目を唱えつつ、仏様の教えにより今までの貪瞋痴の生活を改め、感謝と利他の生活へと生き方を変えたことにより、日々の苦しい生活が好転していったのです。救われたのです。その結果、大きな教団は会員数1千万人と豪語する教団となりました」
 松永氏は同時に、日蓮宗の行き詰まりの原因を以下のように指摘している。
「布教の対象を、主に檀信徒とした内向きの日蓮宗と、未信徒を布教対象にして、教団全体を外向きとし、一人一人に寄り添っていった新宗教。教線拡大の差は、歴然でありました」
 これは日蓮宗だけの問題ではない。日蓮正宗の実態も同じであった。日本の仏教界全体が、檀家制度のままに、檀信徒から布施をもらうことに腐心していたのである。

●宗門僧侶の本音──僧侶と同じ修行をする〝自立した信徒〟は不要

 「檀家制度」は「信徒を寺院に依存させる制度」である。そのために、僧侶と信徒に明確な差別を設ける。読経や説法は僧侶の役割として、信徒が自立できないようにしたのだ。
 牧口初代会長が勤行・折伏を始めた時、宗門の僧侶が〝信徒が勤行すると僧侶の仕事がなくなる〟と陰口を叩いていたという証言がある。たしかに、創価学会員は勤行ができるので葬儀・法要を執り行うことができる。しかし、他宗の信徒は僧侶のように経を読むことがないので、葬儀の導師は出来ない。
〝自立した信徒〟は不用である──というのが宗門の本音である。ゆえに創価学会を破門にしたのである。しかし、宗門は折伏成果を上げるために脱会者を利用している。

●宗門があてにしている脱会者は宗内をかき回す爆弾

今の宗門の折伏を支えているのは、創価学会で折伏の実践を経験した脱会者である。脱会者は、創価学会の中で個人指導や御書講義なども経験している。宗門では御書の講義や指導が出来るのは、法主の名代である住職だけであるが、多くの脱会者がまともな講義や指導ができない住職たちを内心では馬鹿にしている。中には、住職に意見をしたり、独自で活動している者もいる。住職からすれば、脱会者は一番扱いづらい存在である。
 昔の宗門と大きく違うのは、檀徒の密告により更迭される住職が増えたことである。おそらく、密告しているのは脱会者が中心であろう。宗門は折伏のために脱会者を利用しているが、彼らは宗内をかき回す爆弾でもある。

宗門の僧侶や旧信徒は折伏の経験がなく、住職たちはただ号令をかけるだけである。宗門が頼みの綱にしている脱会者は高齢化しており、この数年、折伏は進んでいない。やがて宗門は戦前の弱小教団に逆戻りするだけだが、それは自ら選んだ道である。(以上)

前へ<< 

>>新・改革通信 目次へ
>>トップページへ