「C作戦」の首謀者、阿部日顕が死去

 令和元年9月20日、阿部日顕が死去した。大正11年12月19日生まれで、満96歳9ケ月であった。

 昭和54年7月22日、日達法主の急逝に伴い、緊急重役会議が行われ、その冒頭で、日顕は「実は昨年4月15日、総本山大奥において猊下と、自分と、二人きりの場において、猊下より自分に対し内々に、御相承の儀に関するお言葉があり」と述べ、67世法主になった。その際に、自分の「日慈」の日号が重役・早瀬日慈(68世・日如の父)と同じなため日顕と改めたが、父親が日開なので、「開顕」との語呂合わせと言われている。

 しかし、その後、学衆課の吉川幸道住職らの前で「早瀬日慈さんあたりが(相承を)受けているのではないかとも思ったが、何も言い出さないので、自分から言い出して登座した」と述べていた。

 そして、日顕は池田名誉会長への嫉妬から、「創価学会分離作戦(通称:C作戦)」を画策。平成3年3月、工藤玄英住職と大橋正淳住職が、日顕に会って「C作戦」の存在について問い質すと、日顕は「ああ、知っていたよ。あの野郎(=名誉会長)の首をカッとするという意味だ」と言い、右手で空に「C・U・T」と書いてみせた。

 「C作戦」は実行され、平成2年12月27日、宗門は日顕主導のもと、臨時宗会を開催し、宗規の一部改正を議決。その改正にともない池田名誉会長の総講頭の資格を喪失させた。そして1年後の11月28日、日顕は創価学会に「破門通告書」を一方的に送りつけ、破門にした。

 当初、日顕は反学会のジャーナリストらに「学会員のうち20万人が山につけばよい」と発言していたが、全世界1600万人の「法主退座要求書」の署名簿が日顕の元に届いた。

 平成10年5月、日顕は八百万信徒の真心の供養によって建立され、耐用年数1000年といわれた「正本堂」を、「謗法のかたまり」と言い、建立からわずか26年にして破壊した。そして、その7年後、平成17年12月、82歳で退座を発表。隠尊の身となる。

 日顕が学会を破門したことにより、信者数の98パーセントを失い、昨年3月、ある週刊誌に「創価学会の破門で凋落の一途 信者激減で苦しむ日蓮正宗」という記事が掲載された。

 信徒の激減により、宗門の末寺の三分の一、約200カ寺の末寺が自活できない「援助寺院」と化している。その反面、本山の無任所教師が増え続けている。日顕が設立した「法教院」という政府に正式に認められていない私塾を存続させるために、宗門が毎年、得度者を取り続けているからだ。このままいくと、近い将来に僧侶の半数近くが、無任所教師となると見込まれる。