新・改革通信 NO.26 (2005.11.20)盗座日顕、遂に逃座!負け犬・日顕の哀れな末路(5)
「・・・お電話したんです。その時に、総監さんは『そうですか。どう もご苦労様です。私も明日、猊下から御山へ来るように言われています』 と、おっしゃっていました」日達法主が亡くなって二十四年後にはじめて出てきた、この新事実を信 用する者が果たして宗内にいるのであろうか。重体にあった日達法主が直接、日顕に電話したとは考えにくい。では誰 が日顕に電話をしたのか? 菅野か、それとも光久か? 二人は知らな かったのか、知っていて隠していたのか?
もし、本当に日顕がその時に本山に呼ばれていたのなら、とっくの昔に この事実が明るみになっていただろう。それが、なぜ、二十四年間も秘 密にされていたのか。しかも、そのような重大な事実が宗内僧侶からで はなく、在家から明かされたのである。これが相承の証人とは、日顕宗 の相承とは、とんだ茶番劇である。
山崎と日顕の間にどんな取引があったのかはわからないが、この山崎の 証言は日顕と共謀して作られたことだけは確かである。つまり、日顕も 口裏を合わせているということだ。
日達法主が最後に本山に呼んだのは、菅野と光久であることは、今まで にも、何度も話題になっている。このことが日顕に相承がなかったこと の有力な傍証になっていることは誰の目にも明らかであった。
ところが、山崎が証言するまでの二十四年間、日顕自身はおろか、誰一 人も〃日顕が呼ばれていた〃とは証言していないのである。こんなこと があるはずがない。日顕の「相承」とは、山崎の証言ひとつで、あった り、なかったりするものなのか。
逆に考えると、日顕はそこまで相承問題で苦しんでいるということだ。 「日記」も「相承箱」も出せない。何も物的証拠がない。日顕が表に出 せる唯一の証拠が山崎の証言なのである。
しかし、日顕は証言を手に入れたと同時に山崎に弱みを握られたことに なる。もし、山崎が〃実は阿部に頼まれて証言した〃と言い出したら、 どうなるのか。浜中和道がいい例である。
すでに、宗門は「自界叛逆」期に入った。「後には彼等が歎き日蓮が一 門に劣るべからず、例せば泰衡がせうと(弟)を討九郎判官を討て悦し が如し」。自界叛逆の末路は哀れである。早瀬には、日顕を揺さぶる山 崎という相承破壊の危険因子も相承されるのである。 (続く)