仏事ー常識と非常識 – 彼岸・法事

葬儀 戒名 塔婆 納骨 供養 彼岸・法事

<彼岸・法事>

最近、マスコミを賑わす葬儀の見直し。そこで問題になるのが、僧侶に対する「お布施」や「御供養」。
ここでは「供養」の仏法的意義を問います。


法を持つ真実の人への供養に功徳
悪侶には供養するな、と経典に明確
仏教初期の歴史では、四事供養というのがありました。かつて、出家僧は修行に専念するために社会的な生産手段をもたず、在家の布施によって生活を支えていたのです。しかし、供養の前提として、それを受ける者は真の出家僧でなければなりません。現代の日本では、妻帯僧が当たり前になっていますから、そうしたインドの時代のような出家僧はすでに存在しないので、布施の考え方も異なります。

また僧は「三衣一鉢」といって、三種の法衣と托鉢・食器に用いる一個の鉢だけあればよいとされていたのです。つまり僧は、それだけ質素な姿であるべきだということですが、歴史的には供養を受けることで豊かになり、住居や土地が供養されるまでエスカレートします。釈尊の教えに従えば、本来は雨季を除いては各地を遊行(ゆぎょう)しなければならないのに、その修行を厭(いと)い平気で定住を始める。その結果、僧侶の堕落が始まりました。経典には、こうした悪侶には供養してはならないことがはっきり記されています。大般涅槃経には「若し優婆塞(うばそく)、是の比丘(びく)の是破戒人なるを知らば、給施し、礼拝し、供養すべからず(中略)若し僧中に於いて破戒の者有らば、袈裟(けさ)を被(き)るの因縁のみを以て、恭敬・礼拝すべからず」とあります。

大聖人も「設(たと)いこう(功)をいたせども・まこと(誠)ならぬ事を供養すれば大悪とは・なれども善とならず、設い心をろ(愚)かに・すこ(少)しきの物なれども・まことの人に供養すれば・こう(功)大なり、何に況や心ざしありて・まことの法を供養せん人人をや」(御書1595㌻)と仰せです。たとえこれまでに功徳を積んでいても、真実でない人や法に供養すれば、かえって大悪となって、功徳善根とはならない。反対に、仏法についてよくわからない人でも、しかもわずかな物であっても、真実の人(仏や仏道修行者)に供養した場合には、その功徳は大きいのです。まして、強い信心によって「まこと(真実)の法」(法華経、妙法)そのものに供養する人々の功徳は計り知れません。

供養の本義は「一切衆生を利益する」ため
また「謗法の者をやしな(養)うは仏種をた(断)つ」(御書1467㌻)と、謗法の僧侶には断じて供養をしてはならないとも仰せられています。大聖人は決して悪侶には供養せよとはおっしゃっていません。御書には、大聖人は供養の前提として、広宣流布に生きる真実の僧侶であるか否かを峻別(しゅんべつ)していくことを強調されていることがわかります。大聖人は、常々、「受けがたき人身を得て適(たまた)ま出家せる者も・仏法を学し謗法の者を責めずして徒(いたず)らに遊戯雑談(ゆげぞうだん)のみして明し暮さん者は法師(ほっし)の皮を著(き)たる畜生なり(中略)法師と云う名字をぬすめる盗人なり、恥ずべし恐るべし」(御書1386㌻)とも仰せです。

「白米一俵御書」では、すべての財の中で命が無上の財であるから、命を仏に捧げることによって成仏の因を積むことになると仰せです。しかしこれは聖人の修行であり、凡夫の成仏は「志ざし」によるとも示されています。以上のことを整理すれば、供養にあっては、供養する側の「志ざし」、供養する対象(「まことの法」)が大切になります。

とくに末法において大切なのは、大聖人が諸抄で御教示のごとく、仏よりも法華経の行者に供養することのほうが功徳が大きいという点です。「法」が根本だから、「法」のために戦っている「人」への供養の大切さを教えられているのです。法華経の行者に対する供養は大慈悲であるとの御文もあります。「一切衆生を利益するなればなり」(御書1467㌻)という理由からです。

(日蓮正宗青年僧侶改革同盟『仏事―常識と非常識』《潮出版社》より)

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