同盟通信 NO.107 (2004.10.8)
=花野充道の乱に日顕法主は屈した。「道心」第二十九号で、花野は日顕法主の教学、行政のすべてにわたって、その無能ぶりを指摘、あわせて自分がいかに日顕法主より勝れているかを誇示した。 コケにされて激怒した日顕法主は、花野らを処分するよう宗務院に命じ、再三にわたって宗務院に呼びつけ査問した。しかし、処分はできず、振り上げた拳を降ろしようもなく、あっけなく幕を閉じた。 花野らを救ったという大橋慈譲師の「亨師談聴聞記」が、俄然脚光を浴びることになろう。河辺メモにある日顕法主の大御本尊偽物発言を裏付ける”覚え書“の存在が明らかになったからだ。=
僧俗をあざむき、独裁強権を発動することで、宗内を意のままに操ってきた日顕法主だが、花野ら三人を無罪放免としたことで、日顕法主・小日顕体制は、大きく傾いていくことになろう。日顕法主の考えを維持していくためには、必ず僧俗の首を切るという手法が伴っていた。これが今回、崩れたのである。花野は「再是正命令」に従い、九月十八日付けで、詫び状を書き署名捺印した。細川明仁、阿部美道は「道心」の編集長を辞め、花野は「道心」の編集、出版を続けることが、許可されているのに加え、北京での仏教学術会議に出席することも認められた。宗規に基づく、宗務院からの処分はなかった。細川、阿部との分断がなされた格好とはなったが、花野の一人勝ちで終結したとみることに異論はない。今度ばかりは許さんぞと、日顕法主としてみれば、王手をかけたつもりであろうが、実は逆さまで、王手をかけられてしまったのは、日顕法主のほうであった。花野の勝因は、「亨師談聴聞記」の入手をほのめかしての反撃にあったようだ。うだつの上がらぬふりをしていた花野が、亡き河辺慈篤の手法を見習ったといえる。日顕法主の泣き所は、戒壇の御本尊ニセモノ発言にあるからだ。花野は八月二十九日付けの謝罪文で「五時八教が歴史的事実であるか、ないかということよりも、弘める法そのもの、すなわち戒壇の大御本尊が、本物か、偽物かということのほうが、日蓮正宗の信仰の根幹にかかわることである、と主張している」と、突きつけた。
花野はこれまで、五時八教を云々する弁説の中で、戒壇の御本尊の真偽について述べたことはない。これは明らかに「聴聞記」を、宗務院に意識させた文言とみる向きが多い。この中には、日顕法主の登座後、昭和五十四年十二月二十六日に、”刎頸の友“日顕法主の対応にハラを立てた河辺慈篤が、徳島の敬台寺を出て、対決すると意気まいた。そして、現猊下が戒壇の大御本尊を偽作だと云ったとしたら、これは大問題になる。これを週刊誌に発表しキャンペーンを張ると恫喝し、大騒ぎになった。早瀬日慈、日顕法主も慰留に飛んできたが聞かず、結局早瀬義寛が来て、解決した事件が記されているという。この「聴聞記」の存在を知る小日顕は、これが宗内に流出しているのを知り狼狽していたという。当然、花野の手に入ったことも、確認できていたに違いなかろう。こうした中、宗会議員選挙で、法器会メンバーのうち、現職三人が落選した。そのおりの日顕法主は、たいそう機鎌がよかったという。法器会の力が着実に落ちていることへの安堵であったろう。小日顕体制を作るには、今となっては、法器会は用済みである。しかし、その後六月末の宗会議長選挙で信じがたいことが起こった。達師の長男・細井珪道が一票差で議長に選ばれたのである。日顕法主の機嫌が悪くなったのは、いうまでもない。あれこれ妄想するなか、「道心」掲載の花野の「僧侶主導の広宣流布を考える」と題する論文を見て、独裁の地固めを計っている悪党日顕法主の怒りは、頂点に達した。それから一ヶ月後、盗座二十五周年の記念すべきめでたい日に、弟子を集めて一時間十分にもわたって、名指しこそなかったが、花野論文を批判した。祝いの席で、同門のしかも、教導すべき対象の僧を難じ、悪口雑言するというのだから尋常ではない。「学問の者を斥けて、名付けて守株と為す」(止観捜要記)との妙楽の言葉は、日顕法主に向けられたものといってよい。「宗教批判の原理をワシの言説にあててはならぬ。批判すれば首を切る」と言った具合で、日顕法主はカルト主義に徹している。
花野にしても、「ただ学問を続けて博士号をとること」に専念しているフリをしており、学術大会での研究発表が、世界各地で開かれるにあたって、渡航許可を宗務院に申請しても、意地悪されてなかなか出してくれなくなった。花野はこれにキレたようだ。表向きには、宗務行政にかこつけて日顕法主を批判すること二回、実質的には四回、批判して査問をうけている身にもかかわらず、一挙に勝負に出た。「聴闘記」を手にしたことが、大きな支えとも、自信になっているに相違あるまい。
“飛んで火に入るヤセガリ花野”とばかりに、日顕法主は食らいついた。それが八月十七日付けの藤本総監名で出された「是正措置命令」であった。文面は短いものながら、大捕物めいていた。いわく「公の場で管長を誹毀讒謗する行為」だの「積極的に宗内秩序を紊乱し、かつ本宗の信用を著しく害する行為」などといかめしい。八月二十五、二十六日の両日、教師講習会をはさんで花野ら三人は、教師講習会に出ることなく、宗務院内で第一回目の査問を受けた。これを受けて花野は、八月二十九日付で、七十六頁にわたる「謝罪文」という名目のもと、日顕法主をなぶり、いたぶりにかかった。メモでもするかのような書きなぐりの署名に、それがよく顕われている。ほめ殺しならぬ、あやまり殺しで、徹底的に日顕法主を重ねてこきおろした。日顕法主は謝罪になっていないとして、直ちに「謝罪文」の回収を命じた。細川、阿部を宗会議員辞任に追い込み、花野は隠居もしくは二階級降級、刃向かえば擯斥にするとの見解であった。ところが、九月五日に花野を、十日には細川、阿部を午前と午後に分けて宗務院に招集した際、藤本総監、早瀬庶務部長は「困ったことになった」と弱り果て、沈痛な表情を見せていたという。それには理由がある。今教師講習会で、日顕法主は三大秘法抄の「勅宣並びに御教書」を、建築許可書と書いたのは間違いで、達師に命ぜられたことでもあり、当時のムードでそのように書いてしまったと弁解した。宗祖の御文を軽々に建築許可書と断言した者が、法主の座にいること自体が異様である。自分の致命的ともいえる師敵対の言葉をあっさりと、間違いであったと宗内に容認させておきながら、責任を取らない。そういう御仁に花野を切る資格があるのか、というのである。もっともである。花野に本当のことを書かれたから、血が上っただけのことである。これはいかにもまずい。ましてや、謝罪文には法廷闘争も辞さない構えをうかがわせている。事実、浄福寺の総代、講頭ともに花野支援で団結している。何よりも、「戒壇の大御本尊が本物か偽物か」のくだりが、いたく藤本、早瀬を慎重にさせたようだ。しかし、日顕法主は後先を考えない男で、やりっ放しの無責任が、骨のズイまで染みついている。あくまでも、行け行け、ドンドンで、処分を見合わせるよう進言する藤本、早瀬を容赦なく、怒鳴りつけていたという哀れな、じいさんである。涅槃教に「愚者も亦た二あり。一には罪を作り、二には覆蔵す」と説かれている。宗旨の根幹に関わる事柄が、法廷で明るみになったらどうなるのか。今度は日顕法主への説得と変わったという。日顕法主の罪と、宗門が覆蔵しぬいた宗旨の根幹が裁かれるのはいかにもまずい。事態がどの方向に行くのか、愚者の日顕法主もようやく気づいたようだ。「同盟」として、今後宗務院に呼び出しを受け、査問される諸師にお勧めしておきたい。小日顕らに対し、「花野師から昭和五十四年十二月二十六日の事件についての『聴聞記』を、とくと見せていただきました」と明るく答えられよ。
(憂宗護法同盟員より)