同盟通信 NO.106 (2004.8.11)
=八月六日、日顕法主の盗座二十五周年を祝う「催し」が総本山大石寺であった。背中が曲がり、左足が思うように動かない日顕法主は、入れ歯の緩んだ口で、負け惜しみの二十五年を語り、老醜を晒していた。「私は、自分がこれだけのことをやったと誇る思いはない」と言いながら、全僧侶、法華講員に感謝する言葉はなかった。一方、日顕法主・信彰一派の「旗上げ」と見られていたのに、信彰の登壇もなく、日顕法主も触れずじまいで、茶坊主・八木日照が四番目の信彰を、日顕法主の、〝一番弟子”と持ち上げたのが精一杯、結局今回は腰砕けに終った。だから下山した参加者からは、「何だったんだ」「何もなかった」という声が大半だったのである。”
全てが異様であった。朝九時三十五分からの日顕法主との目通りに、四百六十余人の弟子どもが集まったが、(該当者は五百一人)日顕法主が書院に姿を見せる前に、秋元意道から「会計報告」があった。祝賀御供養金は八百二十六万円で、この中から日顕法主への衣代二百十万円、弁当代百二十万円、写真代三十万円、写真展示その他四百五十六万円、の支出であった。
挨拶に立った八木日照は、本日はご苦労様です。猊下の法類は五百一人、全教師が九百人ですから、半数以上になりました。今回兄弟子と、弟弟子の関係をはっきりするために『名簿』を作りました。誰が兄弟子か、弟弟子かの名簿です。徒党を組んだり、虚栄を張るために、集まって頂いたのではありません。あくまで日顕上人の弟子として集まったのです。私は名簿では僧階が上ですが、法臘の次第からいえば、阿部信彰師、私・八木、高橋信興師の順となります。阿部信彰師が一番弟子です。私は尊敬して参ります。信彰師を中心としてみんな仲良く、頑張って行きましょう”と十五分も話した。
この日、日顕法主「越洋会」の旗上げを兼ねて、弟子で盗座二十五周年を自ら内外にその威武を誇りたかったのであろう。それが小日顕の名を、八木、高橋の名で、オブラートに包むようなやり方で、一致団結を呼びかけざるを得ず、日顕法主は小日顕体制の布告に、一歩引いた形を取った。「同盟通信」一〇五号に、腹黒い日顕法主の野望の本懐が、明かされたからであることは言うまでもない。
この後、左足をいくぶん引きずりながら、おもむろに現われた日顕法主は、五分ほどで「目通り』を終えた。
十時半からの御開扉の後、記念撮影も済み、再び書院に集められた弟子どもは、十一時三十五分から、十二時四十五分まで長々と「御指南」と称する、盗座以来二十五年の、″回顧談”を聞かされるハメとなった。
一、日顕法主は、盗座した際、自分が独断でひねり出した三大指針の「祖道の回復」について、「これは日興遺誡置文に依ったもの」とホラを吹いた。その「祖道の回復」の結晶が、過日の宗規全面改正による、日顕独裁制の施行であり、明らかに「置文」に違背したあり方である。
二、「日達上人に『次はお前がやるんだぞ』と言われた』と大嘘をついて、「日達上人の意を受けて、正信会、創価学会に対処してきた」と、達師の名を十回ほど連発した。達師の亡霊に怯えているのか、達師に一切の責任を押し付けているのか、おそらくはその両方であろう。シアトル裁判、芸者写真裁判、戒壇の御本尊ニセモノ発言、相承箱の所在については一切触れることはなかった。
三、私塾・法教院を作り、高卒の資格しか持たない弟子を、生産し続けてきたことに焦りを感じたのか、日顕法主は「博士号を取ったからといって、大したことではない。そういった者たちと混じって、法義を語るのはよくない。宗祖の法義の上で論争するのは、大いに結構だが。中古天台は述門であり、大聖人とは関係ない」と、暗に「同心」二十九号(平成16年7月7日の花野論文「僧侶主導の広宣流布を考える」を批判した。
先に発刊した自分の「寿量品講義」など、他宗、他門のどこからも相手にされない。勿論宗内にあっても話題にならない。「内部の者が体制を批判するのはけしからん。そういう者とは避けていきなさい」と、「置文」の「論義講説等を好み」も踏みにじった。
四、僧侶主導の法華講育成が大きく破綻した今、日顕法主は「僧がなんでもかんでもやるというではない。多いところは講頭さんの協力を得て、異体同心でやってもらいたい。よく信者の話を聞き、親切に」と僧の質の低下ぶりを認めていた。もつともこれは、信者の話は聞かず、乱暴で、自分一人で決めるという日顕法主の体質そのものであり、そこに随従すれば日顕法主のコピー坊主が、続々生まれるのは当たり前だ。
また「気に入らない信者や、供養しない信者も受け入れ、しっかり指導して欲しい」と注意したが、これも信者をより好みし、供養する者だけを特別扱いする日顕法主の手法を真似ただけ。C作戦決行のツケが援助寺院の増加となり、今ではそれらの統合問題が、極秘のうちに進められている。「いつまでも、月々の援助でやっていけるという安易な考えではいかん」と檄を飛ばしていた。
ダラダラ迷走指南が、終りに近づいた頃、やつと”盛り上がり”を見せた。日顕法主のところに、トカゲが這い出してきて場内騒然となったからである。日顕法主は「わしの法を聞きに来た」と虚勢を張ってみせたが、周囲がなかなか捕まえないのに、「まだ捕まえられないのか」とイラ立っていた。同じ爬虫類、舌をチョロチョロ出すトカゲとヘビ(日顕法主)、「類は友を呼ぶ」とはよくいっものだ。 この後、大講堂に席を移し、樽酒やビールが用意され、幕の内弁当を食べながら、カラオケで狂宴した。だが、参加者は五年後の正義顕揚七百五十年に、これら弟子のうち、何人がまともな姿で残っているかと、お先真っ暗の宗門に思いを馳せ、鳥肌の立つのを禁じ得なかった。
(憂宗護法同盟員より)