同盟通信 NO.111 (2005.12.13)

NO.111(2005.12.13) 

〃急告〃

=日如を産み落とした日顕は、日如の言うことを大聖人の御命題、大聖人と不二の尊体と拝し、能化をはじめ僧俗もまた、日如に信伏随従して奴隷とならね ばならぬ。
 できるか! 日顕=

 大謗法の行いと教えで、足かけ二十七年にわたって支配し続けた謗法の固ま り、ニセ法主の日顕は、腰痛を理由にして早瀬日如に譲り、退座する。牛・ 羊・犬の家畜僧と成り果てている宗内では、額面どおりに受け止めていない。

 ”日顕による院政の始まりだ。罪の深さが自業自得果のままに、日顕の身を むしばんでいるのは事実だが、秋山日浄、尾林日至が、今にも倒れて死にそう なふりで出仕しているのを日顕も真似しているだけだ。

 日顕は、ドラ馬鹿息子。小日顕の法主就任に狙いを定めている。その幕あけ だ”というのである。

 相承が有ったとの大嘘で始まった破壊・無残・無責任の暴虐の限りを尽くし、 今また院政をひく邪心を腰痛で隠すという大嘘で、終わりをくくった。すでに 蓮葉庵には書庫の別棟まで建てていて、謀略をめぐらすための陣を本山にも取 った、と見なくてはならぬ。亨師を馬鹿にし切っていた日顕だけに、寛師を真 似て、蓮葉庵でも子飼いの者どもに、講義するつもりであろう。

 しかし、それはよしたまえ。日顕、貴殿の教学は、他宗他門からも一向に相 手にされていないのだ。何しろ、日顕は「妙の字は若き女の乱れ髪」の痴話歌 で、法華の「妙」を説明するという、デタラメぶり。法華の「妙」は、法の上 に置く「妙」である。観無量寿経の「妙」とは、天地雲泥で、ましてや下世話 の「妙」と法華の「妙」とを同次元にするなどという頭は、低劣を極めている。 阿呆主と言われるのも当然であろう。こういう基礎知識に完全に狂った頭を持 つ日顕に、宗祖の教えを正しく説けるハズがない。しかも日顕は、自分の考え に宗祖の教え、天台、妙楽、果ては寛師の言を引っ張ってきて、自説を飾るの である。このやり方は、加上・変態の教学といってよい。

 こういう狂った頭なるが故に、広宣流布の大道を破壊し、今また院政のノロ シを上げるに至った。日顕よ、目を開けて寛師の指南を拝するがよい。「世間 の人の隠居して其の名称を其の子に譲るに、未だ死せずと雖も、世の者に非ざ るを謂うが如し」(研究教学書十四巻・本尊抄略記)と。此の世の者に非ざると は、死人のことである。隠居とは、そういうもの。蓮葉庵は、死人の館なので ある。死人の館に入ったという自覚をしっかりと持つべきである。総指揮する 主の住まいが、大坊大奥から、蓮葉庵に変わっただけ、と印象づけたいところ であろう。

 しかし、新法主・日如を産み落としたのは、ほかならぬ日顕自身である。こ れより後は、日顕が、日如の言うことを大聖人の御命題と拝し、一方、能化ら は日如を大聖人と不二の尊体と拝し、僧俗もまた、日如に信伏随従して奴隷と ならねばならぬ。できるか、日顕。

 広布をぶっ壊しただけでなく、大御本尊への供養を日顕になされたものと心 得違いを犯し、ぶっ壊しては造り、ぶっ壊しては造って、大散財のかぎりを尽 くした。今はひたすら、修羅・諂曲の業のまま、無間大城へ落ちていく日を待 つ身となったことをかみしめるべきである。

(憂宗護法同盟員より)

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