92年度日顕法主への戦争責任糾弾の書
宗祖日蓮大聖人曰(のたまわ)く
「日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」(御書九一九㌻)
今回の一連の問題によって明らかになったごとく、宗門七百年の歴史は、次第に宗開両祖の御精神を覆滅(おうめつ)させ、とくに江戸期以降、国家権力への癒着(ゆちゃく)、迎合(げいごう)を顕著にする道程であったといわねばなりません。その、民衆救済を忘れた権力迎合体質は、太平洋戦争において一層明確となり、宗門は卑屈なほど軍部権力に媚(こ)び諂(へつら)って侵略戦争に加担(かたん)する中、戦争という大量殺人行為を、積極的に正当化したという事実が白日(はくじつ)のもとになったのであります。
また宗門は軍部の圧力にいとも簡単に屈服し、勤行の御観念文を皇国主義におもねる内容に改変したり、御書の要文を削除するという宗開両祖への大逆を犯し、さらには伊勢皇太神宮(こうたいじんぐう)の神札を僧侶自らが受容するばかりでなく、信徒にも神札受容を強要するという前代未聞の大謗法(ほうぼう)を犯したのであります。
そして、この宗旨建立以来有り得なかった一宗挙げての大謗法行為により、まさしく宗祖の御金言通り日本は敗戦し、その敗戦二カ月前には、本山の客殿・六壷(むつぼ)・書院・大奥などの主要な堂宇(どうう)が焼失してしまうというあまりにも明らかな現証を見るに至ったのであります。
このような事実を、貴殿らはどのように受けとめているのでありましょうか。
いくら貴殿らが「戒壇の大御本尊をお守りし、血脈断絶の危機を避けるため」などと自己の立場を正当化しようとも、宗祖大聖人の
「わづかの小島のぬしらがをどさんを・をぢては閻魔王(えんまおう)のせめをばいかんがすべき、仏の御使と・なのりながら・をくせんは無下の人人なりと申しふくめぬ」(同九一一㌻)
との厳然たる御制誡(せいかい)のまえでは、そのような釈明は大御本尊の御威光を信じられない輩(やから)の、全くの戯言(ざれごと)でしかありません。
しかれば、宗門僧侶は老若を問わず、宗門の戦争協力の事実の前に、大聖人の弟子として、また一個の人間として慙愧(ざんき)の念があってしかるべきではないでしょうか。
しかし、私ども青年僧侶一同は寡聞(かぶん)にして、戦前の宗門の痛恨事についての、貴殿の反省や謝罪の言葉を知らないのであります。その無責任さ、厚顔無恥(こうがんむち)さには唯々(ただただ)呆(あき)れるばかりであります。否、それどころか、最近発覚した海外における初の出張御授戒での「シアトル大破廉恥(はれんち)事件」などをみても、貴殿の信仰者としての堕落ぶりは目を覆うばかりであり、貴殿には、宗門の戦争責任の自覚など露(つゆ)ほどもないのでありましょう。
しかし、その貴殿らは今、無慙(むざん)にも、民衆仏法を掲げ世界平和に邁進(まいしん)する創価学会に怨嫉(おんしつ)し、不当にも「破門」だ、「除名」だなどと騒ぐばかりか、政治権力に訴えてまで学会を解散させようと狂奔(きょうほん)しております。その極悪の無慈悲な体質は、およそ生命の尊厳を説く仏法の精神とは似ても似つかぬものであります。
このような仏法破壊の貴殿に、戦前の宗門の戦争責任という信仰者の本分に関(かか)わる問題を問うても無駄(むだ)ではありましょうが、いやしくも宗門が大聖人以来の仏法の正統の流れを継承しているとするのであれば、せめてもの償(つぐな)いとして、また将来のためにも、宗門の代表者として戦前の戦争責任を謝罪すべきは、最低限の責務といえましょう。
本日、八月十五日の終戦記念日にあたり、私ども青年僧侶改革同盟は日蓮正宗僧侶の自覚に基づき、絶対不戦の誓いを新たにするとともに、宗門の戦争責任と貴殿の無反省を糾弾(きゅうだん)し、公式の謝罪と貴殿の退座を断固要求するものであります。
一、宗門の戦争協力の実態
まず第一に糾弾しなければならないことは、貴殿ら現宗門が「時局協議会」の名において示している見解、すなわち「日蓮正宗の戦争加担は、国民一般の感覚以上に突出していたとはいえない」「一切衆生救済の根本尊崇(そんすう)の大御本尊と、一切衆生の信仰を正しくするために、日蓮大聖人から伝えられた教義の秘伝を軍部の圧政と日蓮宗身延派等の野望によって破壊侵害されないために、表面上国策に従い、実際にはそれを無効にしたのである」(『日蓮正宗と戦争責任』)との主張が、明らかに歴史的事実に反するということであります。
ここでは、まず「日蓮正宗の戦争加担は、国民一般の感覚」「表面上国策に従い、実際にはそれを無効にした」とする意見自体が、事実認識の正誤を問わず、宗教者としてまことに噴飯(ふんぱん)ものと言わねばなりません。たとえ、当時の国民感情が戦争賛美に傾いていたにせよ、また軍部の圧政が苛烈(かれつ)であったにせよ、人間生命の尊厳に基づく絶対平和主義を掲げられた日蓮大聖人の正統門下を自負する者が、時勢に与同(よどう)しただけだなどと、どうして開き直れるのでしょうか。そこには聖職者としての良心や道念のかけらすらないではありませんか。いやしくも、正宗僧侶の立場で国家権力への迎合と戦争加担など、いかなる理由があっても認められません。なぜならそれは、宗祖の国家諌暁(かんぎょう)の御精神に違背する大謗法行為だからであります。
しかも、当時の宗門機関誌『大日蓮』などを見ると、ひたすら国民の戦意昂揚(こうよう)を目的とした、いわゆる「紙の弾丸」の様相を呈しており、宗門の公式文書をひもといても、その論調たるや明らかに国家体制側に立っての戦争支援、宣伝に明け暮れています。
その典型は、昭和十六年十二月八日、太平洋戦争開戦の日に鈴木日恭(にっきょう)法主が発した「訓諭(くんゆ)」であります。
「本日米国及英国ニ対シ畏(かしこ)クモ宣戦ノ大詔(たいしょう)煥発(かんぱつ)アラセラレ洵(まこと)ニ恐懼(きょうく)感激ニ堪(た)エズ(中略)本宗宗徒タルモノ須(すべから)ク
聖慮(せいりょ)ヲ奉体(ほうたい)シ仏祖ノ遺訓ニ基キ平素鍛練ノ信行ヲ奮(ふる)ヒ堅忍持久百難ヲ排シ各自其ノ分ヲ竭(つく)シ以テ前古(ぜんこ)未曾有ノ大戦ニ必勝ヲ期セムコトヲ
右訓諭ス」
日恭法主のこの「訓諭」は、開戦を待ちわびていたかのごとき言辞で埋め尽くされ、到底、消極的に軍部に従う姿勢などとはいえません。その証拠に、同じ頃(ころ)宗門はそれまでの軍事献金の労を早くも認められ、海軍大臣から次の「感謝状」を送られているのです。
「感謝状
今次大東亜(とうあ)戦争に際し国防充実の趣旨に依り献金を辱(かたじけの)うし感謝に堪へず茲(ここ)に深厚(じんこう)なる謝意を表す
昭和十六年十二月
海軍大臣 嶋田繁太郎
日蓮正宗殿」
以後、宗門は挙宗一致して戦争協力に狂奔し始め、進んで軍部権力の走狗(そうく)となり下がったのであります。
その実例は枚挙に暇(いとま)がありませんが、特に太平洋戦争に入ってからは、新年の大御本尊御開扉や開戦記念の毎月八日ごとの法要において日恭法主の導師の下、全山あげて大東亜戦争必勝と武運長久(ぶうんちょうきゅう)を祈念したり、戦死者に対して「本宗宗徒の面目を全(まっとう)す」「本宗宗徒の無上の名誉と亀鑑(きかん)たるべし」などと持ち上げて、ひたすら戦死を賛美しております。
また、大政翼賛(よくさん)会の宗教報国組織の一環を担うため昭和十七年十一月、「日蓮正宗報国団」を全国に結成し、国防献金や僧侶・檀信徒の錬成(米英撃滅思想の徹底)、講演会活動、果ては政府の人口政策に応えんと「結婚相談所」まで開設したことが、当時の『大日蓮』に記録されています。
一方、宗門の二大法要とされる御虫払会・御大会も、本来の意義から大きく逸脱(いつだつ)し、報国団主催の時局講演会や国祷(こくとう)会を主眼とした内容となっていきました。
例えば、昭和十八年十一月の御大会は「米英撃滅必勝信念昂揚の御大会」と銘打たれ、御開扉で「国威(こくい)宣揚(せんよう)皇軍(こうぐん)武運長久戦傷病将士全快」が祈念されたほか、現役軍人の講演、報国団幹部による「ユダヤの陰謀について」(報国課長・青山諦量氏)、「正義日本の進むべき道」(庶務部長・渡辺慈海氏)などの布教講演が続々と飛び出し、宗祖への御報恩の儀式が、さながら戦争宣揚一色に塗りつぶされた感があります。
さらに、翌十九年の御虫払会になると、宗務院名で次のような通達が出されています。
「宗内一般
総本山霊宝(れいほう)御虫払会特別法要の儀本年は之を行はず換(か)ふるに三月廿八日より四月三日に至る一週間、左記の如く聖戦必勝国威宣揚、皇軍武運長久、敵米英撃滅の大国祷会を執行候條此段及通達候也」
つまり、令法久住を目的とする宗門恒例の御虫払会を中止し、代わりに一宗こぞって大東亜戦争の必勝を祈願する「大国祷会」を自主的に開催したのであります。
以上は、宗門の戦争協力の、ほんの一端を述べたに過ぎませんが、一体これらのどこが「表面上国策に従」った姿と言えるのでしょうか。仮に、当時、軍部の情報操作に踊らされた人たちを「被害者」側に見立てたとしても、宗門の積極性はとてもその範疇(はんちゅう)には収まらず、明確に「加害者」側に立っていたと総括されねばならないのであります。
二、教義歪曲・改変の問題
次に、前章で掲げた「時局協議会」の文書は、「日蓮大聖人から伝えられた教義の秘伝を軍部の圧政と日蓮宗身延派等の野望によって破壊侵害されないために」やむなく国策に追従した云々(うんぬん)と述べていますが、これまた全くの大ウソであります。国家権力の弾圧を恐れ、皇国絶対思想に迎合した宗門は、戦前に数々の重大な教義上の「破壊侵害」を自ら積極的に行い、大聖人の仏法の本義を曲げてまで戦争に加担したのです。
その理由は、ひとえに自分たちの保身のためでありました。大聖人の門下としてこれ以上卑劣(ひれつ)な姿はないでしょう。もちろん、現宗門が言っているような「教義の秘伝」を守り抜こうとする自覚など、微塵(みじん)も感じられません。宗祖大聖人は、涅槃(ねはん)経の文を引かれ、
「寧(むしろ)身命を喪(うしな)うとも教を匿(かく)さざれ」(同三二一㌻)
と諌(いさ)められています。この経文に照らして、宗門のとった行動は、まさしく“身命を惜しんで教を匿す”大謗法であると、声を大にして弾劾(だんがい)せずにはいられません。
(1)御書要文の削除
宗門の保身の行動は、開戦直前の昭和十六年にいち速く現れました。この年の九月、日蓮正宗中枢(ちゅうすう)は、日蓮宗身延派等が八月に内務省の圧力を受けて霊艮閣(れいこんかく)版の御書の発刊・使用の禁止を打ち出し、遺文削除の動きが活発化していることに非常な危機感を抱き、御本仏の正嫡(せいちゃく)の自覚と誇りを無慙(むざん)にも打ち捨てて、邪宗日蓮宗と同一歩調を取る道を選択しました。具体的には、大聖人が御自身を末法の御本仏であると宣言された、
「日蓮は一閻浮提(いちえんぶだい)第一の聖人なり」(同九七四㌻)
などの御文をはじめ、国家神道では絶対的存在とされる天照大神や国主を「小神」「仏の所従」と表現されている部分を削除し、当時の教学部通達で、
「法話講演等ニ引用セザルコト」
と、一切の使用・言及を厳禁したのであります。
さらに、この教学部通達に一カ月先立って出された院達(同年八月二十四日付)では、「御書刊行ニ関スル件」と題し、御書は鎌倉時代の国情に合わせて書かれたものであるから、現下の状況で用いることは「宗祖大聖人ノ尊皇(そんのう)護国ノ御精神ヲ誤解スル」恐れありとし、御書全集の刊行を禁止する措置をとっております。
あわせて、同院達は、
「本地垂迹(ほんじすいじゃく)説ハ一般仏教通途(つうず)ノ説ニシテ(中略)本宗ハ第一義ニ於テ依用セザリシ」
と本地垂迹説さえ否定し、宗祖への師敵対を重ねる情無さであります。要するに、宗門は国家神道に媚び、宗祖本仏論を故意に否定するうえで、何よりも御書全集が邪魔になるので、発刊禁止にしたわけであります。これは宗祖の御書を軽視し、焼却やスキカエシにした五老僧以上に悪辣(あくらつ)な大謗法であります。
「体曲れば影ななめなり」(同九九二㌻)
唯一の仏法正統の流れを汲(く)むと自認しておきながら、その重大な責任を放擲(ほうてき)し、御本仏を隠してまで神や国主を持ち上げた、余りにも卑劣な宗門の醜態(しゅうたい)こそ白法が隠没(おんもつ)した姿であり、閻浮提闘諍(とうじょう)という惨禍(さんか)を招来(しょうらい)した真因といえるでしょう。
(2)御観念文の改変
また、本宗僧俗の日常の修行の基本は朝夕の勤行ですが、この勤行の御観念文についても、前記の院達の二日前に別の院達を出し、軍部の推進する皇国主義に加担する内容に改変した旨を通達しています。これは、当時「神本仏迹論」なる邪義を掲げ、軍部と結託して宗門乗っ取りの野望を抱いていた小笠原慈聞の主張に従い、天照大神中心主義に御観念文を改竄(かいざん)したものと考えられます。
内容は、まず初座の御観念文においては
「謹(つつし)ミテ皇祖天照大神皇宗神武(じんむ)天皇肇国(ちょうこく)以来御代々ノ鴻恩(こうおん)ヲ謝シ併(あわ)セテ皇国守護ノ日月天等ノ諸神ニ法味(ほうみ)ヲ捧(ささ)ゲ奉ル希(ねがわ)クハ哀愍(あいびん)納受(のうじゅ)ヲ垂(た)レ給ヘ」
と諸天善神のうち、天照大神だけを過度に崇敬(すうけい)し、次に代々の天皇への感謝の意の表明があり、しかる後にようやくその他の諸天が「日月天等ノ諸神」と簡略化された形で登場しています。同様に、二座・三座においても、本来最大限に報恩謝徳すべき仏法僧三宝への御観念文がいたって簡素な表現にとどまり、四座の広宣流布祈念に及んでは、「官民一体」「国威増輝」との用語を作為的に挿入(そうにゅう)して、大聖人の世界広布観に皇国史観を持ち込むという「摧尊入卑(さいそんにゅうひ)」の謗法を犯しているのです。
私どもはこれまで、宗門が小笠原を擯斥(ひんせき)処分に付した所以(ゆえん)は、彼の邪説「神本仏迹(しんぽんぶっしゃく)論」にあると理解してきました。しかし、様々な宗門軟化の実態を知った現在では、小笠原擯斥の真相は、あくまで彼の宗門支配の策動を封じる点にあったと考えざるを得ません。単に教義上の見解だけを比較すれば、むしろ宗門側が小笠原の影響を受け、極めて近似(きんじ)した立場を取っていたと結論づけられるのであります。
(3)生命尊厳の根本精神に違背
日露戦争が勃発(ぼっぱつ)した頃、ロシアの大文豪トルストイは、日本の仏教界に向かって、今こそ仏教の不殺生(せっしょう)の精神を発揚(はつよう)し、非戦運動に立ち上がるよう、要請しました。
日本仏教界の代表者はこれに対し、我々は日本国の臣民(しんみん)であり、戦争には協力せざるを得ない、と答えたといわれています。このエピソードは、日本の仏教者の偏狭(へんきょう)な体質を端的に示唆(しさ)しているといえましょう。
いうまでもなく、仏教の根本精神は、慈悲と非暴力に根差した絶対平和主義にあることは自明であり、それは
「三千大千世界にみてて候財も・いのちには・かへぬ事に候なり」(同一五九六㌻)
すなわち、人間の生命は宇宙大の財宝をもってしても、比較できないほどの絶対的価値を有するものと、生命の絶対尊厳を説かれた大聖人の御教示にも明瞭(めいりょう)であります。
ところが、軍部権力に無節操な迎合を続けていた宗門は、この仏教の根本精神に背を向け、「殺生」行為たる戦争を拒否するどころか、逆に“殺人の奨励”まで平然と行っていたのであります。一体宗門はどこまで堕落していたのかと、私どもは驚き、呆れ、強い憤(いきどお)りを覚えるのであります。今、その悪行の一部を『大日蓮』誌より抜粋(ばっすい)し紹介すると、次のごとくであります。
昭和十七年一月、九州八幡教会主管の柿沼広澄氏は兵器類を作る資材にと、金属製の仏具を供出(きょうしゅつ)することに決め、同教会の本堂にて「仏具献納供養」の法要を修した。その際柿沼氏は「兵隊さんの鉄砲の弾丸になるのなら、一発必中の破邪顕正の弾丸になれ」と、自坊の仏具が弾丸となり、敵兵を一発で打ち殺せるよう御本尊に「御祈念申し上げ」たのであった。
昭和十七年九月、大石寺で恒例の寛師会が執行された。その行事の一環で上野村青年学校生徒の「銃剣術試合」が富士学林の校庭で行われ、理境坊住職・落合慈仁氏が審判を務めた。だが、その趣旨は「米英の鬼畜(きちく)の落下」に備え「撃ちてし止(や)まむの気魄(きはく)」で敵兵を刺殺(しさつ)するための訓練であった。
昭和十九年一月号の『大日蓮』八面の末尾に、「係り」と称する者が、献金を呼び掛ける一文を草しているが、その檄文(げきぶん)の一節に「あらゆる機会に彼等(英米兵・筆者注)の素ツ首を撃ち落とす機械が必要」なので、篤志(とくし)家は「日蓮正宗宗務院内報国団会計主任」の前川慈寛氏宛(あて)に申し出るように、と懇請(こんせい)している。
かかる言動を、一国玉砕(ぎょくさい)体制の異常な雰囲気の中での、止むを得ぬ出来事と捉(とら)えるべきでは断じてありません。政治権力の下僕(げぼく)に堕(だ)した仏教界に警鐘(けいしょう)を打ち鳴らし、仏法本来の人間主義、絶対平和主義を取り戻さんと宗教革命に立ち上がられたのが、宗祖日蓮大聖人であられました。ゆえに、この大聖人の門下を名乗るならば、日蓮正宗の僧侶たる者は、徹底して民衆の側に立ち、既成の権威権力と闘い抜き生命の尊厳を訴える「平和の闘士」「宗教革命の勇者」でなければならないのです。まして不殺生戒を一顧(いっこ)だにすることなく、殺人行為の成功を祈念し、奨励さえするに至っては、何をかいわんやでありましょう。
(4)神札の受容
さて、政府が治安維持法の改悪を進めるにつれ、「大麻(たいま)」の奉斎(ほうさい)、すなわち神札を受けることが宗派を問わず強制されるようになりました。
ところが、日興上人以来の神天上の法門を受け継ぎ、神社は悪鬼魔神の住処なりとの信条を厳守すべき宗門は、ここでも安易に国家権力の軍門に下り、何と日恭法主が自ら音頭を取って、
「聖上陛下には昨冬(昭和十七年・筆者注)十二月十二日伊勢神宮に御親拝と拝承し奉る、是(こ)れ赤子たる我等国民の斉(ひと)しく恐懼(きょうく)感激する所なり」
などと、伊勢神宮参拝を讃嘆(さんたん)したのであります。
他方、あくまで大聖人の正法正義を守り抜かんとされた創価教育学会の牧口会長と戸田理事長(当時)は、断固として神社不参・神札拒否の姿勢を堅持し続けておられました。
自宗の信徒組織が軍部に抵抗する--これでは宗門側にも官憲の弾圧がおよぶ危険性がある--と、またもや保身に走った宗門は、十八年六月、総本山に牧口会長らを呼び、日恭法主の立ち会いの下、渡辺慈海庶務部長が神札を受けるよう強要したのであります。
しかし、牧口会長らは神札を受けることを敢然と拒否されました。そして、孤立無援の状況の中でついに逮捕、入獄と、大聖人に連なる殉教(じゅんきょう)の道を堂々と歩まれたのであります。
これに対し、宗門は、あろうことか、自門の信徒たる学会を登山停止処分にして無関係を装い、同年十一月一日には、宮城遥拝(ようはい)・神社参拝を奨励(しょうれい)する院達すら出したのであります。(一説<小笠原慈聞の記述>によると、宗門の神札受諾決定は、じつに開戦以前の昭和十六年八月二十日に開かれた上老会議にまで遡<さかのぼ>る)
この厳然たる歴史を見る時、学会がいかに重大な使命を帯びて出現した仏意仏勅(ぶついぶっちょく)の団体であるか、また今の<日顕宗>の謗法の淵源(えんげん)がいかに根深いものなのか、私どもは驚嘆の念を禁じ得ないのであります。
日蓮正宗の僧侶たる者が信徒に謗法行為を強要し、従わぬと見るや無慈悲に切り捨て、そのうえ権力者側の国家神道に擦(す)り寄るとは、もはや言語道断であります。いかなる理由があれ、その大罪は万死(ばんし)に値するでしょう。今回の学会に対する「破門」や「信徒除名」などの非道な処置もそうですが、そもそも信徒を見捨てるという行為自体、大聖人が四条金吾殿に
「設(たと)い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮を・いかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし」(御書一一七三㌻)
と仰せられ、信徒とどこまでも同苦された御本仏の大慈大悲の御姿に背く、師敵対の大逆であります。
いわんや、護法のための譲歩だなどという言い逃れは、恥の上塗りになるだけということに早く気付くべきであります。他門ですら、例えば本門法華宗のように僧俗が手を携え、官憲の弾圧と最後まで戦ったところもあるのです。
しかしながら、こう断ずると貴殿らは必ず次のような反駁(はんばく)をしてまいります。それは、
「ほかの一宗教が滅びるならば、一切衆生のために喜ばなければならない。しかし、日蓮正宗の一宗が滅びることは、一切衆生が、成仏の依処を失うということである。本門戒壇の大御本尊を身延派の支配下に置き、血脈法水が断絶したならば、一閻浮提の一切衆生の成仏はどうなるであろうか」(時局協議会文書、「『神札問題』について」)
というものです。
けれども、大聖人の教義を曲げ矮小(わいしょう)化し、皇国(こうこく)思想に従ってまで教団の保身に汲々(きゅうきゅう)とすることで、果たして大御本尊と血脈を守ったといえるのでしょうか。たとえ、物理的に御本尊と法主が無事であったとしても、大聖人は、
「仏法の失(とが)あるは大風・大波の小船をやぶるがごとし国のやぶるる事疑いなし」(同一五二一㌻)
と仰せであります。
仏の金言空(むな)しからず。血脈付法の日恭法主が大御本尊に必死の「国祷」を繰り返したにも拘(かかわ)らず、日本は戦争に敗れ一度滅亡しました。保身をはかったはずの宗門も戦災に遭(あ)って多くの堂宇を焼失し、最後には日恭法主の焼死という痛ましい結末を迎えたのです。げに恐ろしきは、仏法の因果であります。
それほど、大聖人の「御精神」と正しき「教義」は、絶対に守らねばならない命綱なのであります。ゆえに、本当に護法の一念が決定(けつじょう)した「法華経の行者」が立ち上がるならば、仏祖三宝と諸天善神の守護を得て、いかなる事態になろうと、必ず大御本尊は令法久住(りょうぼうくじゅう)されていくのであります。これこそ、
「設い日蓮死生不定為(た)りと雖(いえど)も妙法蓮華経の五字の流布は疑い無き者か」(同九六三㌻)
との御本仏の大確信に連なる、正信の僧俗の大道であります。
つまり、大聖人の御精神と教義を死守した戦前の創価教育学会の殉教の戦いは、取りも直さず御本仏の御心に適(かな)った、偉大なる大御本尊守護の法戦であったと言えるのであります。
三、宗門の戦争責任
かくして、戦前の宗門が時局便乗(びんじょう)とはいえ、仏法上の信念と教義を曲げてまで軍部権力に迎合し、戦争に協力した事実は疑う余地がありません。
それゆえ、宗門が戦争責任を負うことは、自明であります。その「責任の所在」は、貴殿も含め、戦時中の宗門人として戦争加担の足跡が顕著に残されている者には当然でありますが、いわゆる戦争を知らない世代に属する宗門人に関しても、等しく謝罪の当事者というべきであります。
なぜならば、戦争責任への反省・懺悔(ざんげ)とは、信仰者の自覚そのものから発するものであり、真の宗教者ならば、宗門の戦争加担の歴史に対し痛哭(つうこく)なる自責を覚え、厳粛(げんしゅく)な自己総括と謝罪をなすべきことは、理の当然であるからであります。
また、現在の若手僧侶が戦前の軍隊さながらの階級主義、序列主義に凝(こ)り固まり、暴力をもって自由な言論を封殺している実状や、私どもが貴殿に手渡した『離山の書』に対する稚拙(ちせつ)な反論文書の中で、<非教師有志>と称する者たちが
「仏法は決して民主主義ではない」
と暴論を吐いても平気でいられる感覚などは、宗門が戦前的体質の悪弊(あくへい)から未(いま)だに一歩も脱却できずにいることの証であり、宗門の「戦前世代」、とりわけ法主である貴殿より“独裁”と“暴力”の体質を受け継いでいるからに他なりません。まさしく大聖人が、
「師の罪は弟子にかかる」(同一三五二㌻)
と仰せ通りの姿であります。こうした宗門の体質問題も、戦争責任と決して無縁ではありません。
このように、宗門の戦争責任は全宗門人にわたるわけですが、その現在における中心的所在は、あくまで宗門の最高責任者である貴殿に存するのは言うまでもありません。
では次に、「誰に謝罪するのか」という問題があります。何より宗祖大聖人に対し奉り、一切の謗法行為を懺悔滅罪することが先決でありましょう。また、創価学会に対して、戦前の宗門が牧口初代会長・戸田二代会長を見捨て、裏切り、その結果牢獄へ追いやった事実を認め、正式に謝罪すべきであります。
加えて、具体的に日本の侵略戦争の舞台となった中国、東南アジアなどの諸国の人々に対しては、当時日本で戦争に協力した宗教団体として、過去の誤りを率直に認め、自己批判し、謝罪し、今後二度といかなる戦争にも加担しないことを堅く誓うことが絶対に必要であります。この厳粛な謝罪表明をせず、国際人としての信義を欠くようでは、宗門は世界広布を放棄(ほうき)していると言われても仕方がありません。ゆえに、この謝罪と誓いは、最終的には、生命尊厳を掲げる仏法者として、仏性を有する一切衆生即ち全人類に対するものでなくてはなりません。
私ども青年僧侶改革同盟一同は、これらの見地から、日蓮正宗の僧侶として、戦前の宗門が日本の非人道的な侵略戦争に加担した事実を率直に認め、仏祖三宝に懺悔し奉るとともに、全世界の人々に対し、心より謝罪の意を表明いたします。
そして、今後いかなる戦争勢力にも絶対に妥協することなく、徹底して生命の尊厳を訴え抜くことを誓い、宗祖大聖人の御遺命たる世界広布の実現に命懸けで奔走(ほんそう)される池田SGI会長と全世界の同志の皆様とともに、どこまでも世界の恒久平和を目指し、僧侶の使命を全うしていくことを決意するものであります。
こうした戦争責任の謝罪に関しては、他宗他門の方がよほど積極的であると思います。例えば、身延日蓮宗はすでに敗戦後の一九四七年、日蓮正宗と同様、国家権力におもねり、大聖人の遺文を削除した事実を認め、
「宗祖の心血の文字たる御遺文の随所を不敬なりとし、ほしいままに之を削除するが如きは、五逆罪の一たる出仏身血(すいぶっしんけつ)の罪を犯せるもの」
と、宗徒としての反省の意を表明し、
「これを機会に従来の態度を反省一擲(いってき)」
するとして、内外に誓いを立てています。
また、最近では湾岸戦争、あるいは昨年の真珠湾攻撃五十周年などをきっかけに、浄土真宗内で戦争責任告白の気運が高まり、それぞれ自己批判を試み、戦争責任を公式に謝罪しております。むろん、これらの教団は邪義邪宗であり、彼らの宗教的信義に与(くみ)するつもりはありませんが、それらの表明に対しては傾聴(けいちょう)に値するといえます。
しかるに、本宗はどうでしょうか。貴殿は自ら戦争協力の一端を担った当事者でありながら、戦後四十七年を経た現在に至るまで、個人としても、日蓮正宗の管長・法主の立場としても、一片の反省・懺悔の言葉すらありません。ゆえに、<日顕宗>の僧侶たちは貴殿の体質をそのまま受け継ぎ、宗門の戦争協力の誤りを一切謝罪しないばかりか、かえって学会の反戦平和運動を批判するという、邪宗の僧らよりも劣るような無反省、不知恩な言辞(げんじ)を弄(ろう)し続けております。
時局協議会の文書『日蓮正宗と戦争責任』など、その好例であります。彼らは、
「日本国民は深く陳謝しなければならない」「現時点の我々から見てもやむないことであった」
と見苦しい言い逃れを重ねるのみで、決して宗門の戦争責任を詫(わ)びようとしません。そして、驚くべきことに毎晩丑寅(うしとら)勤行で世界平和を祈念している戦前の勤行の四座の御観念文のうち「天皇陛下護持妙法」の箇所を戦後削除した--ということで日蓮正宗僧侶が「戦後の反省」をしていると強弁し、何と最後には、池田名誉会長の平和行動をゆえなく中傷したうえ「信仰者の本分において、地道に人類の幸福と平和を祈っていきたい」などと、何ひとつ行動を起こさない自分らの怠慢さを正当化して嘯(うそぶ)いているのであります。
こうなると、宗門の言う「反省」とはまさに言葉だけで、「お尋ね」文書のように、状況次第で「訂正」はしても何ら責任を感じ「謝罪」しようとしない、まことに度し難い傲慢(ごうまん)・身勝手で醜悪な心根だけが浮き彫りになるのであります。そうでもなければ、本来宗門が謝罪すべき相手の創価学会の平和運動を称賛こそすれ、誹謗(ひぼう)中傷などできるわけがないのであります。これ以上欺瞞(ぎまん)に満ちた卑劣な宗団は、宗教界広しといえども他には絶対にないでしょう。
たとえ貴殿らが、いかに丑寅勤行で世界平和を祈念していると主張しても、それは、
「口ばかり・ことばばかりは・よめども心はよまず」(同一二一三㌻)
との宗祖の御金言のごとく、心からの戦争協力への反省・懺悔なき、うわべだけの読経唱題に過ぎないのです。また、万一、貴殿らが平和を観念的に祈っているとしても、
「心はよめども身によまず」(同㌻)
すなわち、平和への具体的行動もアピールもない偏頗(へんぱ)な自己満足の信仰と言わねばならないのであります。
昨今の末寺住職の離脱が象徴しているように、いよいよ<日顕宗>崩壊(ほうかい)へのカウントダウンが始まっております。思うに、宗教者失格、人間失格の独裁法主の貴殿が、世界広布を破壊し、断絶せしめんとした因果の報(むく)いを受け、自界叛逆(じかいほんぎゃく)の騒乱の中に退座する日は、もはや目睫(もくしょう)の間といえるでしょう。
願わくは貴殿よ、宗門法滅の悪業の果報いまだ五尺の痩身(そうしん)に現出せざるうちに、潔(いさぎよ)く一分の道理を納受し、戦争加担の罪科を公に表白し、もって大御本尊と閻浮六十億の民に心から陳謝し奉らんことを。大聖人の御教誡(きょうかい)に曰く、
「小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬがれず、大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ」(同九三〇㌻)
と。
三思の静慮(せいりょ)をめぐらせ、敢(あ)えて逸機(いっき)の妄動(もうどう)を重ぬることなかれ。
平成四年八月十五日
青年僧侶改革同盟
日蓮正宗管長 阿部日顕殿
- 92年度 日顕法主への戦争責任糾弾の書
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