新改革通信 第171号 令和7年8月13日 戦後80年、治安維持法制定100年 宗門が沈黙しても、宗内僧侶は戦争責任に向かい合うべき

新改革通信 第171号
発行:青年僧侶改革同盟
令和7年8月13日

戦後80年、治安維持法制定100年
宗門が沈黙しても、宗内僧侶は戦争責任に向かい合うべき

 戦時中、政府は宗教教団を思想統制のために利用した。各教団は弾圧を恐れて、国家の方針に進んで迎合し、戦意高揚の役割を担って戦争に加担した。
 その戦争が終わり、80年の節目を迎えるに当たって、浄土真宗本願寺派が4月14日にメッセージを発表し、「その戦争に協力し、戦争を賛美したことも、私たち教団の歴史です」と過去を反省して平和を願うと述べている。
 沖縄復帰の日である5月15日には、全日本仏教会は理事長の声明文を出して「いのちの尊厳を提唱すべき私たち仏教徒の中には非戦を貫いた者もおりましたが、戦争に加担・協力した事実がありました」と述べ、曹洞宗も同日に宗務総長談話を出して「宗門は当時、国家政策や世論の流れに無批判に迎合し、積極的に戦争に加担してしまいました」と語っている。どちらもあらためて戦争加担を認めて反省し、平和への決意を表している。

●「表面上は国策に従い」と戦争推進の共犯であると認めながら、責任逃れする日蓮正宗

 今、世界では様々な場所で紛争や内戦が起こり、多くの人道危機が発生している。戦争に協力した過去を持つ各宗教団体は、平和構築に寄与するために、何ができるか考え、そのためにまず、戦争責任を認めることから始めている。
 ほとんどの宗派は戦後に戦争責任を認めて謝罪しているが、未だに日蓮正宗は戦争責任を認めていない。彼らの主張は以下のとおりである。
「日蓮正宗の戦争加担は、国民一般の感覚以上に突出していたとはいえない。また、一切衆生救済の根本尊崇の大御本尊と、一切衆生の信仰を正しくするために、日蓮大聖人から伝えられた教義の秘伝を軍部の圧政と日蓮宗身延派等の野望によって破壊侵害されないために、表面上国策に従い、実際にはそれを無効にしたのである。」(平成3年、宗門文書)
 実際に発行した戦意高揚の「訓諭」「院達」は一宗としての権威であって、本来、「国民一般」と並べる性質のものではない。そのこと自体、突出していないというのであれば、宗教者としての役割を完全に放棄した居直りである。
そのうえで、彼らが「表面上国策に従い」と述べているように、たとえ表面上であったとしても国策に従ったことは宗門も認めざるをえない事実である。当然、戦争推進の共犯として責任が伴う。軍部の弾圧を恐れて戦争に加担しておきながら、責任を放棄する宗門の詭弁を宗祖日蓮大聖人は厳しく叱りつけるに違いない。

●不当逮捕された牧口先生と戸田先生を保身のために信徒除名にした宗門こそ、大聖人の教えを「破壊侵害」するものである

 戦時中、政府は自分たちに従わない宗教教団や宗教者を容赦なく弾圧していったが、その背景に「治安維持法」の存在があった。治安維持法が1925(大正14)年に制定され、本年4月22日で100年を迎えた。戦後に同法が廃止されるまで10万人以上が検挙され、拷問や病気で死亡した人は1000人以上とされる。
 この「天下の悪法」により、牧口初代会長と戸田第二代会長が軍部に不当逮捕されて82年、牧口会長の獄死から81年である。
 宗門は自分たちに累が及ぶことを恐れ、牧口先生、戸田先生を信徒除名の処分にしただけではなく、拘留中の牧口先生の家族に対して牧口先生に退転を促すように説得を試みていた。
 宗門は「日蓮大聖人から伝えられた教義の秘伝」を「破壊侵害されないために」と言っているが、大聖人が法を説いた目的は「一切衆生の救済」のためである。大聖人の仏法を守るために戦争推進に協力するなど、本末転倒である。弾圧を恐れて信徒を見捨てることこそ、大聖人の教えを「破壊侵害」するものだ。そんな「秘伝」など宗祖とは無関係のものだ。

●宗内僧侶一人一人が戦争責任に向かい合い、国家と宗教について考えるべき

宗門が宗教団体として為すべきことは
1、 戦時中の戦争協力の謝罪
2、 戦意高揚のために出された「訓諭」「院達」等の撤回
3、 「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」など不敬罪が適用されると指摘された御書の御文削除の撤回
4、 牧口初代会長と戸田第二代会長を登山停止・信徒除名にしたことに対する謝罪と名誉回復である。
このことを我々は宗門に言い続けて来た。しかし、宗門は一切、戦争責任に触れることはなく、沈黙を貫いている。宗門が戦争責任を認めずに口を噤んでいても、宗門の僧侶たちは、世間から見れば、“戦争に加担した教団”に属し、負の遺産を受け継いでいる立場になる。
だからこそ、今、問われているのは、宗内僧侶一人一人が、日蓮大聖人の弟子として、戦争責任とどのように向き合うのか、ということである。

本来、僧侶は「立正安国」の教えをもとに平和や人権といった現代の社会的課題に取り組んでいくべきである。その中で、宗門の過去の歴史とその問題点を明らかにしていくことは、これからの国家と宗教の関係を考えるために必要なことだ。アジアの民や世界の良識が、歴史に目を閉ざし続ける宗門を受け入れるはずがない。今のままでは閻浮提広布は画餅である。
今、世界情勢は不安定になっている。もし戦争が起きたとき、過去の宗門と同じ轍を踏む危険性はないのか、大聖人の教えを基準にしてどのような行動をとるべきなのか、宗内僧侶は議論をして一人一人が考え抜くべきであろう。
我々は、戦後80年という大きな節目の時に、改めて宗内僧侶に「宗門の過去の歴史と向き合い、声をあげよ」と訴えるものである。
(以上)

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