新・改革通信 NO.143 (平成30年8月24日)渡邉慈済住職の証言ー日蓮正宗と創価学会の初期の交流・本山編(2)

戦後の法華講について
 戦後の本山が貧しかった一番大きな理由は、檀家からの布施が少なかったことである。
 戦前の昭和14年の壇徒数は全国で46,332名(昭和17年版『毎日年鑑』)であった。
 それでは、戦後の本山の檀家はどういう状況だったのか?
 渡邉慈済住職の証言には以下のように書かれている。


本山に参詣しない檀家たち
 檀家はというと、自分たちの生活が手一杯で、大石寺のことを考えるどころではなく、本山からすっかり遠ざかっていた。
 近くに住む檀家を、どうやって大石寺に参詣させるか。
 父や塔中住職が抱えていた本山復興の課題の一つがこの問題であり、さまざまに議論、検討された。
 そこで浮上したのが、「総本山法華講」を発足させることであった。
 昭和25年、大聖人御聖誕の意義を刻む2月16日に、御誕生会を兼ねて発足式を行なった。
 8月のお盆と、2月の御誕生会の時に総会を持って、盛り上げていこうという趣旨で始まったが、ただ行事や法要を行なっただけでは、檀家の人たちは足を運ばない。
 一つの対策として、浪花節語りとか漫才師などを呼んで、”客寄せ”に使った。
 しかし、これはお金のかかることでもあり、大掛かりにはできず、自前の芝居を打つことになった。
 この出演者に、我々所化小僧も駆り出されることになったのである。


素人芝居でやっと500名の檀家が集まる程度
 25年8月のお盆の時の集まりでは、布教にも役立つように、大聖人の御生涯のなかから「佐渡の御難」という題で劇を行なった。
 日蓮大聖人の役は吉田義誠氏、日興上人には故・早瀬義孔氏、阿仏房には秋山慈泉(日浄)氏、千日尼には私、そして演出は故・大村寿道氏(寿顕氏の父)が行なった。
 この時、客殿には、法要の時に集まったのは280人ほどだったが、劇の時には500人に膨れ上がった。
 芝居の”客寄せ効果”はあったわけだが、手を替え品を替え、懸命になって集めても、500人集まるのが精一杯の寂れた田舎の貧乏寺だったのである。(『日蓮正宗落日の真因』から)

 500人が劇を見に来たが、法要に参加したのは280人──これが68年前の本山の檀家の実情であった。
 今の若手の僧侶から、「全国の檀家は、本山に参詣していなかったのか?」という疑問が起こるかもしれないが、そもそも、その頃は登山会がなかったのである。
 よほどの理由がなければ、地方の壇徒は、本山には来なかったのだ。
 今は、当たり前のように行われている大石寺の登山会を作ったのは創価学会である。
 しかし、注目すべきことは、その登山会が発案された背景である。(続く)

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