新・改革通信 NO.149 (平成30年9月29日) 渡邉慈済住職の証言―日蓮正宗と創価学会の初期の交流・末寺編(3)

当時の末寺と創価学会の関係
 戦後、東京の寺で創価学会員に御本尊授与を行なっていたのは、中野の歓喜寮(現昭倫寺)や砂町の白蓮院、池袋の常在寺などであったが、会員の急増で間に合わなくなっていた。
 昭和26年の12月、戸田会長は蒲田支部長・小泉隆さんと支部幹事・白木薫次さんを連れて、妙光寺に参詣し、住職の中島日彰氏に逢って「妙光寺でも御本尊下附や御授戒をお願いします。更に、学会員(特に蒲田支部)の葬儀・法事等に協力をして下さい」
 中島能化は「いいですよ! 27年の1月から実行し、協力します!」と、こころよく返事をしました。
 私達所化小僧は大変驚きました。「初めて聞く、御本尊下附とか御授戒とは何ですか?」 中島住職は丁寧に御授戒文を教えてくれました。(手記より)
 この授戒について、日亨上人は、「授戒の定規はなかったと思う。それが、近今に至って、にわかにその式が新設されたのではなかろうか」(『富士日興上人詳伝』)と述べられているが、学会の草創当時を知る、故・和泉最高指導会議議長の証言によれば、この御授戒の儀式は昭和12年ごろ、牧口先生が宗門に依頼して始めてもらったものだという。当時は、いくつもの宗教を遍歴したうえで入信するケースが多かったので、”けじめ”をつけるためであったということだ。
 しかも末寺によって違っていたため、昭和41年2月9日付の「院達」によって統一された。


当時の御形木御本尊について
 この当時は、授与された御形木本尊は末寺によって異なっていた。昔は木版刷りだったから、「形木本尊」と呼ばれている。
 妙光寺蔵の木版刷りの御形木御本尊様は、第55世日布上人の御本尊、百葉(表装されていない本紙)。すぐに表具屋に持参し、百体あれば何年か持つだろうと思っていましたが、3ケ月も持たず、大日蓮社から日寛上人の御形木御本尊を分けて貰うようになったのです。
 他の在京寺院、池袋の法道院、向島の常泉寺、本行寺、砂町の白蓮院もこの頃(昭和27年)学会に協力を求められるようになったのです。
 法道院は第56世日応上人の御形木御本尊様、常泉寺・本行寺・白蓮院は第60世の日開上人の御形木御本尊様を下附しましたが、各寺とも大量の御形木御本尊様は在庫していないので、やはり三ケ月位で、大量に在庫している大日蓮社の日寛上人の御形木御本尊様を下附するようになったのです。(手記より)
 何故、末寺によって授与する本尊が異なっていたかというと、どの末寺も、その寺に由縁のある法主の御本尊を印刷していたからだ。当時は、表装されていない和紙のまま、折りたたんだ本尊が授与され、自分で表具屋に依頼をして表装をしてもらう場合もあった。
 そして、昭和27年、宗門の「布教会」が、日寛上人の御形木本尊に統一することを決定し、本尊の印刷を請け負ったのが、豊島区・法道院内の「仏書刊行会」であった。(続く)

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