新改革通信  「宗門問題を理解するために」(3) 令和4年4月10日

新改革通信 

「宗門問題を理解するために」(3)
 平成6年8月、全国教師講習会で法主であった日顕は以下のように発言しています。
「ミーチャンハーチャン(筆者注:ミーハーのこと)に分かるようにペコペコよ、頭下げて説いてたらよ、本当の法なんか説けやしないんだ」「民衆、民衆って言う奴ほどバカなんだ」「民衆が一番大事なんです。何をふざけたことを言ってる」
 一宗のトップが民衆を「ミーハー」と呼んで蔑んでいるのです。今回は、このような差別をなくしていくことが、人間の尊厳を守る戦いであることを論じていきます。


僧俗差別との戦いは人間の尊厳を守るもの

今回の論点

1、今の僧俗関係は、江戸時代の「檀家制度」によって制度化したもの

 今の日本の寺と檀家の関係は、江戸時代の「檀家制度」が始まりです。江戸幕府がキリスト教禁制を徹底させるため、人々に所属する宗派や寺院を決めさせ、その所属する寺院が檀家であることを証明する「寺請証明書」を発行しました。この証文がなければ、檀家は就職も旅行もできなかったのです。檀家は出生から死亡、移転や婚姻などすべて寺に届け出なければならず、法要・墓地などはもちろんのこと、寺は檀家の生活全般にわたって管理し、僧侶と檀家の主従関係が制度化されてしまったのです。
 宗門は“檀家制度以前から、僧侶を師として檀家を指導していた”と言っていますが、本山(大石寺)周辺の檀家は、勤行もできず、他宗の札や神棚などを祭っている家もあります。檀家はお盆経、法事、葬儀に僧侶を呼ぶだけで日常の活動はありません。まさしく、檀家制度の姿そのものです。
法主であった日顕は一般得度7期生との面談では“学会のお陰で本山周辺の檀家の謗法が減った”と述べていました。長年の間、信心の指導がなされていなかった証拠です。

2、僧俗差別は人間の尊厳を貶め、仏界を矮小化するもの

 宗門には厳然とヒエラルキーが存在しています。上から並べると、法主、法主の女房、末寺住職、住職の女房と子供、所化(住職になる前の僧侶)、そしてその下が信徒になります。末寺住職の女房をファーストレディと揶揄する所化もいました。彼らの意識の中には、明確に主従関係が存在しています。
 僧俗差別の問題は、主従の関係を作って人間の尊厳を貶めるだけではなく、仏界を矮小化することです。宗門の考えでは、信徒が僧侶の上になることはなく、「信徒の仏界」は「僧侶の仏界」より下となってしまいます。これは仏界の差別であり、仏性を矮小化するものです。
 実際に私たちが本山で唱題していると先輩僧侶たちが“僧侶になったのだから、学会員みたいに唱題する必要はない”と言っていました。僧侶は唱題をしなくても、唱題をする信徒より上であるいう慢心が差別を生み出しているのです。

3、僧俗差別は大聖人の本懐である「人の振る舞い」に背く行為

 日蓮大聖人は「不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」と仰せです。不軽菩薩は、人を軽んじることなく、人の仏性を尊敬して礼拝行を続けた菩薩です。
この御文に照らせば、仮に、遊興をせずに真面目な僧侶であったとしても、信徒差別で人を軽んじて敬うことができなければ、大聖人の教えに背いていることになります。
 宗門問題が起こった時に、真面目に見える住職でも「信徒が僧侶に歯向かうことは間違っている」と言っていました。宗門の僧侶たちには差別意識が染みついているのです。
 僧侶たちは学会員が懸命に唱題・折伏をしている姿を見ているはずです。公平に見れば、行学に励む学会員の信心は、僧侶が頭を下げて見習うべきものです。しかし、彼らは“信徒の分際で”と信徒を貶めることで、自分たちの優越感を保っているのです。これは「人の振る舞い」として絶対に許されない行為です。

4、差別を許さないという強い決意と行動が平和の基礎を築く

 宗門は「僧侶は、総本山において修行し、血脈付法の御法主上人より免許を蒙った法衣を着ているのでありますから、大聖人の仏法の法位において、当然信徒より上席であります」(「宗務院からの指摘」平成3年1月)と述べています。しかし、本山で〝特別な修行〟はありません。私たちが見てきたものは、唱題をする者を蔑む風潮、所化が御書を学ぶのは夏の講習会だけ。日常的に先輩が後輩をいじめ、時には暴力を振るう。このような実態です。
 「法衣を着ているから信徒より上」という主張は釈尊の時代の“生まれによる差別”と同じ考えです。日蓮大聖人がこのような考えを認めるとは思えません。
 「世界人権宣言」の「前文」は、人類社会のすべての人々の「固有の尊厳」と「平等で譲ることのできない権利」を承認することが「世界における自由、正義及び平和の基礎である」という言葉から始まります。しかし、「自由、正義、平和」は観念ではなく、行動から生まれるものです。
 等しく仏界を持つ人々、無限の可能性を持つ人々を差別する。この悪弊を断ち切らなければ、人間の尊厳と平等を守ることはできません。足元にある「僧俗差別」と忍耐強く戦う創価学会の行動が、間違いなく「自由、正義、平和」の基礎を築いているのです。

 次回は「宗門問題により明確になった成仏の意義」というテーマでお届けします。

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