新・改革通信 NO.108 宗門の存在意義を揺るがした、創価学会の御本尊授与 宗門にとって致命傷だから、過剰に反応する! [日蓮正宗改革同盟]
この大きな節目に、宗門の邪義を破折するため「新改革通信」を読者の便宜を考えて、体裁を新たにして発行する運びとなった。
引き続き、断末魔の叫びをあげる日顕らにとどめをさしていく所存である。
今回の宗門事件で日顕が創価学会に対して、御本尊を授与しないと言い出し、御本尊を、信徒を脅かす手段にしてきた。
その卑劣な行為に対し、日蓮正宗改革同盟並びに青年僧侶改革同盟は、改革同盟に所属する小山市・浄圓寺に格護されていた日寛上人御書写の本尊を授与することを決議し、創価学会に申し入れしたのだ。
だから本山・理境坊の小川只道のように、宗門の歴史を知る者は、日寛上人御書写の本尊を「にせものとは言えないが、許可がない」という言い方になるのだ。
創価学会が本尊を授与すると、なぜ、宗門は困るのか。なぜ、「許可」にこだわるのか。それは、彼らの権威が失われ、宗門の存在意義さえ、疑われるからだ。
すなわち、宗門の「許可」という権威が失われれば、歴代法主の本尊を所持している寺院は、将来、宗門から離れても、完全に独立できるようになる。そして、権威だけで末寺を束ねている宗門は、いとも簡単に分裂してしまう。
日達法主は亡くなる直前、大奥に、娘婿の東京国立・大宣寺の菅野慈雲と当時の御仲居・光久諦顕を呼ぶように奥番に命じた。
もし、日顕が内々に相承を受けたというなら、その場に呼ばれているはずだが、実際には呼ばれていない。
しかし、日達法主は病院で、大奥に向かう前に逝去された。そのことを日顕は最後のチャンスととらえて、自分が内々に相承を受けたと言いだしたのだ。
自作自演で法主の座を盗んだだけでなく、信徒の浄財で遊蕩に明け暮れて堕落し、信徒差別の感情から「C作戦」を企てた日顕・日如を用いないということが、正しい信心の姿である。