新改革通信 特集「C作戦」検証(10) 令和8年6月12日 日顕の迷走から始まった平成3年

新改革通信 特集「C作戦」検証(10)
発行:青年僧侶改革同盟
令和8年6月12日

日顕の迷走から始まった平成3年
 平成2年12月27日、池田名誉会長の法華講総講頭の資格喪失を決行した日顕は、毎年の1月2日に池田名誉会長と学会幹部が本山に来るのが恒例であったから、平成3年の年頭も池田名誉会長が来るものだと思っていたことは間違いない。
 日顕には〝結局のところ、信徒は衣の権威に逆らえない〟という慢心がある。だからこそ、資格喪失を一方的に通知しても、最後は言うことを聞くと高を括っていたのであろう。しかも、法主を批判、誹毀讒謗した時は処分できるように宗規も改正した。
 ところが、年末に学会から「抗議書」が届いた。これは日顕にとって想定外だったことだろう。この学会の抗議に苛立ちと不安を覚えたであろうが、しかし日顕は、その日、自分の目の前で直接、池田名誉会長に謝罪をさせて決着をつけるつもりであったことも想像に難くない。全てはこの日で終わるはずだった。
 そして年が明けた平成3年1月2日、秋谷会長と森田理事長が日顕に面談を求めた。しかし、日顕は「お目通りの儀は適わない身」と対面を拒否した。まさしく日顕の権威主義の体質を端的に表している言葉である。池田名誉会長が来なかったことに対する戸惑いなのか、「抗議書」を送ってきた学会を許せないと思ったのか、いずれにしても、教導もできず、対話を一方的に拒否して逃げるという醜態を晒した。

事情が分からず、右往左往していた末寺住職


 この当時の本山周辺の住職と末寺の住職では、認識が大きくずれていた。宗門は池田名誉会長の法華講総講頭の資格喪失について、マスコミに〝処分ではない。あくまでも宗規改正によるもの〟と説明した。ゆえに各地域の学会員から〝宗門の大恩人である池田先生に対して、なぜこんな一方的な措置をするのか〟と問い詰められても、末寺の住職たちは理由を説明できなかったのだ。
 末寺住職を混乱させた一番の原因は、そもそも「池田名誉会長を罷免する大義名分がない」ということだった。〝宗規改正によるもの〟という中途半端な説明が宗門全体を混乱させていたのである。「C作戦」の存在を知らないほとんどの住職は〝まさか学会を切ることないだろう〟〝どうせ一時的な出来事にすぎない〟と思っていた。

末寺住職に危機感を持たせるために涙を流して訴えた日顕の一人芝居


 この末寺住職の困惑ぶりは本山にも伝わっていた。ゆえに、日顕は末寺の住職に危機感と学会と戦う意識を持たせるために精一杯の演出をする。
 1月6日、日顕は「全国末寺住職・寺族初登山」の会合で「結句は一人になって日本国に流浪すべきみ(身)にて候」との御書を引き、「一人になっても法を護ってまいります」と涙を流して訴えてみせた。だが、多くの末寺住職は事情がよく分からず、戸惑っている者も少なくなかった。
 ゆえに日顕は1月10日の教師指導会でも、「たとえ将来、粥をすするようなことがあっても正義は守る」と悲壮な決意を披露した。それでも末寺住職の反応は鈍く、日顕は「広宣流布したらドイツでも『歓喜の歌』は歌えなくなる」と何の脈絡もなく言い出したり、「たんなる御本尊書写係で終わっていいのか!」と突然、怒り出したりする場面もあった。
 ただ、参加者に伝わったのは、日顕一人が池田名誉会長批判の旗を振っているという本山の異様な雰囲気であった。軍歌『敵は幾万』の大合唱を聞きながら戸惑いを覚え、〝これからどうなるのか〟と不安に思う者も大勢いた。その証拠に、この1週間後に各末寺で行われた御講で池田名誉会長の批判をした住職は4割弱である。
 1月24日に本山で行われた代表者会議(約140名結集)で庶務部長の早瀬(日如)が、1月の御講で学会批判をしなかった住職がいたことに触れ、「支院長さんや副支院長さんが弱腰では、今度の問題は絶対に解決いたしません」と激を飛ばしている。

池田名誉会長の「慢心」をでっち上げた日顕の正本堂発言


 さらに日顕は池田名誉会長を排除する理由を新たに作るために、この1月6日と10日の教師指導会で、〝池田名誉会長が、昭和43年10月の正本堂着工大法要における挨拶で「法華本門の戒壇たる正本堂」と述べたことが「慢心」である〟と急に言い出した。〝池田名誉会長が一信徒の立場で正本堂を御遺命の戒壇と断定したことが大きな問題であり、そのような「慢心」が、今日、宗門と学会の問題が起こった根源である〟と決めつけたのである。
 しかし、これは、日顕の完全な思い違いであった。実際には、昭和40年2月の第1回正本堂建設委員会で、日達法主が「一期弘法抄」を引いて「正本堂が広布の暁に本門寺の戒壇となる意義をもつ建物である」と指南している。
結局、この日顕の発言の誤りについて、『大日蓮』(平成3年2月号)に二つの訂正が掲載された。
一つは、「昭和43年10月以前に、正本堂につき『三大秘法抄』『一期弘法抄』の御文意を挙げての日達上人のお言葉があったので訂正する」、もう一つは、「正本堂を三大秘法抄等の御遺命の戒壇と関連させた発言をしたのは、名誉会長が一番初めではなかったので訂正する」というものであった。
 これで池田名誉会長批判の根拠は日顕の単なる勘違いというお粗末な話で終わった。

弱気になって山﨑正友に「嘘つきと言って悪かった」と謝っていた日顕


 この1月6日の教師指導会の前日、日顕が山﨑正友に「あの時はウソつきと言って悪かった。かんべんして下さい」と伝言したことがわかっている。これは、当時、日顕が弱気になって山﨑に頼ろうとしていたことを示唆している。しかし、かつて山﨑は「日顕は日達法主から相承を受けていない」と週刊誌を使い、正信会をたきつけて日顕を誹謗していた人物である。
 昭和54年7月、日達法主が急逝し、山﨑は日顕に取り入ろうとしたが、日顕は山﨑に対して「あんたは大嘘つきだ」と言って本山の出入りを禁じた。怒った山﨑は「相承はなかった」と日顕を攻撃したのだ。その人物に謝罪するとは、日顕が行き詰まり、助けを求めたとしか言えない。事実、山﨑は正信会の浜中和道に「日顕の奴も、とうとうオレにひれ伏したんだよ」と言っている。しかし、山﨑はその2週間後の1月22日に、恐喝事件の上告が棄却され「懲役3年」の実刑が確定した。結局、日顕は犯罪者に謝罪したことになる。

 日顕は正本堂に関する発言を利用して大義名分を作ろうとしたが失敗した。その日顕に追い打ちをかけるように、1月1日に学会側から「お尋ね」文書の根拠であるテープの反訳の間違いを指摘されて、1月12日に重大な質問部分を撤回することになり、総講頭罷免の根拠が総崩れになる。平成3年は日顕の迷走から始まり、末寺住職が振り回されることになるのだ。(続く)

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