新改革通信 特集「C作戦」検証(13) 令和8年7月20日 総講頭罷免の理由の後付けのため、宗門史を改ざんした日顕(中)

新改革通信 特集「C作戦」検証(13)
発行:青年僧侶改革同盟
令和8年7月20日

総講頭罷免の理由の後付けのため
宗門史を改ざんした日顕(中)

正本堂と戒壇堂は「別なもの」としていた池田名誉会長

 そもそも、「正本堂」の名称は、65世日淳法主が昭和30年の論文で、戒壇の御本尊は「本門寺の正本堂に安置せしめん」と述べたことに由来している。実は、昭和30年といえば、この年、創価学会の浄財で本山に「奉安殿」が建立寄進された。それまでの御開扉は、御宝蔵で行われ、200名も入らない規模であった。奉安殿は、約1500名から2000名。しかし、当時の広宣流布の勢いを考えれば、次なる殿堂の建設が視野に入るのも必至であった。そうした将来像について、日淳法主と戸田第二代会長が語られていたことも想像に難くない。
 そうした構想を踏まえて、昭和33年3月に戸田会長は大講堂を建立寄進した際に、若き池田名誉会長に、次は大客殿であり、更に引き続いて正本堂を建立するように託すのである。
 そして昭和39年5月3日、大客殿の落慶と戸田会長の七回忌法要が終わり、池田会長(当時)は創価学会の本部総会で、総本山に正本堂の建立、寄進をすることを発表する。その際に、重要な発言を残されている。
「正本堂の建立は、事実上、本山における広宣流布の体制としてはこれが最後なのであります。したがって、あとは本門戒壇堂の建立だけを待つばかりになります」
 つまり、正本堂と戒壇堂は別なものと考えられていたのである。その前提で、創価学会は、どこまでも信徒団体として、宗門が言う「正本堂」の建立に尽力していくことを表明したのである。そして、この時の総会で、翌年の10月に正本堂建立への御供養を行うことも発表した。
 ところが、昭和40年2月16日の第一回正本堂建設委員会で日達法主が、
「一般の見解では、本門寺の中に戒壇堂を設けることであると思っているが、これは間違いであります」「今日では、戒壇の大御本尊を正本堂に安置申し上げ、これを参拝することが正しいことになります」「広宣流布の暁をもって公開申し上げるのであります」
と、正本堂が広布の暁に戒壇となる建物であると示されたのである。

正本堂を「本門戒壇の戒壇堂」と意義付けして供養を集めた宗門

 さっそく昭和40年3月号の「大日蓮」には、
「正本堂建立が実質的に戒旦建立と同じ意義であるという、日蓮正宗の奥儀にわたる重大なお言葉があった」
と報じられて宗内に周知され、建設委員会は同年3月の「正本堂建立御供養趣意書」で、正本堂建立は実質的な戒壇建立であるとの意義を徹底し、宗内僧俗に供養の参加を呼び掛けていく。
 昭和40年9月12日に宗務院が出した院達には
「このこと(=正本堂建立)は、大聖人の御遺命にしてまた我々門下最大の願業である戒壇建立、広宣流布の弥々事実の上に於て成就されることなのであります」
と戒壇建立が「事実の上に於て成就される」とまで書かれていた。
 昭和42年10月12日の正本堂発願式で教学部長であった日顕は
「宗祖大聖人の御遺命である正法広布・事の戒壇建立は、御本懐成就より六百八十数年を経て、現御法主日達上人と仏法守護の頭領・総講頭池田先生により、始めてその実現の大光明を顕わさんとしている」
と「事の戒壇建立」を明言している。

池田名誉会長は宗門の見解を述べただけ

 日達法主は昭和43年9月19日、ひと月後の着工大法要について次のように述べている。
「法華講総講頭池田先生の大発願のもとに、本門の戒壇堂とも云うべき正本堂建立が、今月(ママ)の12日に今正に着工する着工大法要が行なわれる」(御説法「下山御消息(8)」於・札幌日正寺 「大日蓮」昭和44年3月号)
 このように宗内では正本堂建立は「戒壇建立」であるという見解で統一されていた。その流れで、昭和43年10月12日の正本堂着工大法要で池田会長(当時)は次のように挨拶した。
「(『三大秘法抄』を引き)この法華本門の戒壇たる正本堂の着工大法要を血脈付法第六十六世日達上人猊下の御導師により、無事終了することができました」
 池田名誉会長の挨拶は非常に簡素で、宗門の見解を述べただけである。
 こうした経緯を追えば追うほど、日顕が〝宗内の誰も述べていない「法華本門の戒壇たる正本堂」との池田名誉会長の発言こそが大慢心であり、一番の問題の元〟とした発言がいかに虚妄なのかが明瞭になる。「これひとえに良観・然阿・道阿等の上人の大妄語より出でたり」(行敏訴状御会通)と、嘘・讒言で法華経の行者を陥れようとした輩の末裔にも等しい所業である。

誤った文法解釈を開陳して、更に窮地に陥る日顕

 日顕は池田名誉会長の慢心をでっち上げるために正本堂の発言を利用しようとして失敗し、宗門の機関誌で自分の発言が訂正されるという失態をさらして大恥をかいた。しかし、日顕は、懲りずに学会からの「お伺い書」(平成3年2月27日付)に対する「ご回答」(同年3月9日付)の中で、日達法主の「訓諭」(昭和47年4月28日)の
「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時におる事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」
の「戒壇たるべき」の「べき」は推量の助動詞で予定の意であり、「予定は未定にして確定にあらず、しばしば変更することあり」として、〝正本堂が本門寺の戒壇にならないこともある〟と珍妙な解釈をした。
 しかし、日達法主は正本堂完成後の昭和48年10月、「池田会長と正本堂」と題する一文で「此の大御本尊を正本堂は永久に守護し奉る建物である」と述べており、日達法主は一貫して別な戒壇堂を作ることはないという立場である。日顕自身も、法主になってからも「正本堂こそ本門の戒壇であります」(昭和59年4月、虫払会)と断言している。
 学会は日顕が「べき」についての独自の解釈をするにあたって引用した「日本国語大辞典」の編者ら、二人の最高峰の国語学者の「問題の文は、『正本堂は、広宣流布が行われた場合、本門寺の戒壇となるのが、道理に基づいて当然である、それにふさわしい大殿堂である』と解釈するのが妥当である」との見解を示し、「訓諭」についての日顕の文法解釈は完全に間違いであることを明らかにした。結局、日顕はそれに答えることができなかったのである。(続く)

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