新改革通信 特集「C作戦」検証(15) 令和8年9月16日 犠牲者を生み、不発に終わった「添書登山」

犠牲者を生み、不発に終わった「添書登山」
 日顕は〝総講頭罷免〟を正当化するため、平成3年1月6日・10日の教師指導会で、池田名誉会長が20年前、一信徒の立場で正本堂を本門の戒壇と断定し、その慢心が、宗門と学会の今回の問題が起こった根源であると言い出した。この日顕の〝正本堂説法〟は宗門の歴史を捏造した言いがかりであったが、実は日顕の「思い付き」であったことを自ら証言している。
 平成3年3月5日、工藤玄英住職と大橋正淳住職との面談で、〝正本堂説法〟が事実と違うことを指摘された日顕は「ウーン」とうなって頭を抱えながら、次のように白状した。
「あの日は原稿を持っていなかったからな」、「ああいう話をするつもりではなかったんだ」
 この言葉通りであれば、日顕は思い付きで宗内を巻き込んで大騒ぎをして、あげくの果てに自滅したことになる。しかし、日顕の心の奥底にあるのは〝信徒の分際で戒壇に触れたことが気に食わない〟という信徒蔑視の憤怒の命であろう。この時点で自己矛盾に気づいてもなお、日顕はその感情を抑えきれずに3月9日付の学会の質問に対する回答の文書の中で〝「大聖人の御遺命の達成」という意識の中から、池田名誉会長の慢心が強まり〟などと言い出した。明らかな誤りであることが分かっても、なお、自説にこだわり続けることで、図らずも以下のことが浮き彫りになった。

①僧俗和合の宗門史全体を否定し、檀徒制度の名残である僧俗差別時代に回帰させるという日顕の邪な願いが「C作戦」の出発点であること
②僧俗和合を貫かれた日昇法主・日淳法主・日達法主の法華弘通の相承の系譜と日顕の血脈とは全く無縁であること


●追い込まれた日顕は「C作戦」の次の段階を実行に移す

 そして日顕は〝正本堂説法〟の失敗を隠蔽するかのように「C作戦」の次の段階を実行する。

(C作戦文書)海外組織は宗務院海外部の指示に従うよう命じる
(宗門が実行)「SGIに一任していた海外布教の方針の撤廃」を通告(平成3年3月5日)

(C作戦文書)全国紙への広告で大量の学会員が末寺に殺到
(宗門が実行)一般紙に添書登山の広告を掲載(平成3年6月5日)

 3月5日、宗門はSGI(創価学会インタナショナル)に一任していた海外布教の方針を撤廃する旨を学会に送付。通達の書面に「諸般の事情により」としか理由を説明できないほど、強引な方針転換であった。海外における檀徒作りが目的であったが、結局、この画策は功を奏さなかった。
 さらに同月16日、宗門は突如、40年にわたる学会の月例登山会の取りやめる書面を送付し、末寺の「添書(添え状)」がなければ登山できない「添書登山」への切り替えを学会に通告してきた。
そして「C作戦」通りに宗門は6月5日付の朝日、読売、毎日などの一般紙に、「創価学会の皆様へ 大石寺登山についてのお知らせ」と題する添書登山の案内の広告を出した。

●財政的援助の為に戸田会長が発案した定例登山会のおかげで宗門は未曾有の発展

 しかし、あらためていうまでもないが、戦後の疲弊した宗門を支え、豊かにしたのは学会の登山会であった。御影堂や塔中の坊は雨漏りがするし、着るもの、食べるものも満足になく、若い僧侶や所化たちが自ら土地を開墾し蕎麦を植えた。地方の住職も貧しくて登山できない者も多くいた有様だった。各宗派からも大石寺は貧乏寺と称され、末寺の法華講には本山を守る意識もなかった。
 そうした中、宗門は大石寺の観光地化を模索する。昭和25年11月、総本山客殿において「富士北部観光懇談会」が開かれた。富士宮市長、上野村長をはじめ、富士宮の観光協会の代表や新聞記者も出席し、大石寺の観光地化について、「三門付近で観光客案内所をおく」「観光客に対しての宿泊の設備」などが提案されている。(『大日蓮』昭和25年12月号)
 この大石寺の観光地化計画を聞いた戸田会長は、観光地化により拝観料を取る他宗の寺院のように大石寺が世俗化することを心配し、定例の登山会を計画したのであった。
 日達法主は昭和48年8月、教師講習会の開講式において次のように述べている。

「戸田先生はそれならば登山会をつくろうというので、登山会を毎月一回、当時一回でしたが、登山会をすることになって、初めて本山は活気づいてきたのでございます」

 そして延べ7000万人が参加し、この登山会によって本山は未曽有の繁栄を遂げたのである。宗門はその大恩を仇で返すように、参詣登山を脱会者作りに利用したのである。

●「忙しくなるぞ」と期待していた日顕ら。一転して「なぜ(学会員が)来ないんだ」と歎く

 添書登山を通告する直前の支院長会議で、大勢の学会員が寺を訪れると見込んで、河辺が「在勤者(所化の僧侶)のいない寺では受付が大変になる」と言うのを聞き、日顕は喜んでいた。法主である自分の元に、連日、何万人もの学会員が来ると妄想していたのだ。当時、庶務部長で新宿・大願寺の住職であった早瀬義寛(現法主・日如)も所化たちに「さあ、忙しくなるぞ」と嬉しそうに話していた。〝いくら会員が「池田先生のもとで」と言っても大御本尊を選ぶだろう〟と考えていたのだ。週刊誌も「学会員大量脱会か」と騒いでいた。
 平成3年7月、「添書登山」が開始された。どこの末寺でも期待感があったが、蓋を開けると、来るのはわずかな未活動者だけである。宗門にとって記念すべき7月2日の初登山に参加したのは法華講2900名、添書登山は700名。600カ寺の末寺で各末寺1名ほどである。早瀬は「なぜ来ないんだ」「組織が止めているに違いない」と見当はずれの不満を言っていた。
 信心の実践がない宗門僧侶には、創価学会の師弟の信心は理解できない。学会員は学会の中で信心を学び、自行化他の実践を通して広宣流布を目指す師弟の信心を体得していく。大御本尊に依存する信心ではなく、御本尊を弘めていくという大聖人と同じ立場に立つ信心である。だから「添書登山」という大御本尊を利用した檀徒作りの策略などに騙されることはなかったのだ。

●短期間の強引な登山方式の切り換えが犠牲者を生んだ。すべては日顕の責任である

 本来、従来の登山会を変更するならば、専用列車などの年間ダイヤを組んでいるJRをはじめ、登山会専用船舶、バスの輸送会社などで社会的な影響は深刻になることは当然のことである。しかし、宗門は、そうした関係者との協議もなく、一片の通知(平成3年3月16日付)で、しかもわずか三カ月後の7月から変更すると通知したのである。それがために、団体登山の輸送を長年担当していたバス会社「大富士開発」は解散に追い込まれ、副社長は経営の悪化を苦に自殺した。
 また、添書登山に伴い、これまで安全無事故の運営を担っていた創価班は本山から離れ、同時に、本山は警備会社を追い出し、登山者の安全に何の配慮もしないなかで、痛ましい事故が起きる。11月10日、本山の売店あたりで家族とはぐれたある信徒が行方不明になり、1カ月後に富士郡芝川町の山中で御遺体となって発見された。
 これら一連の悲劇の社会的責任は日顕にある。自らの欲望を満たすために、人命を疎かにする者に僧侶を名乗る資格などない。そして宗門僧侶も与同罪であることを忘れてはならない。(続く)

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