新・改革通信 NO.66 (2007.02.16) 「行い」を問うて宗教改革を目指した釈尊の心と、宗教的権威と戦い抜いた日蓮大聖人の精神を受け継ぐ創価学会

法主絶対・僧俗差別の「迷信」を説く日顕らは”邪宗門”!
 大聖人御聖誕から本年で七八五年になる。
創価学会の出現により、大聖人の仏法は今や、世界百九十カ国・地域を越える勢いで広まっている。
この創価学会の大偉業を宗祖大聖人がどれほど喜ばれているか。なぜなら、「大願とは法華弘通なり」(御書 七三六頁)「広宣流布の大願」(御書 一三三七頁)と仰せのように、世界広宣流布こそ、日蓮大聖人の御遺命であるからだ。
その大聖人の大願を、我が大願として創価学会の三代会長が「不惜身命」の実践によって、日本のみならず全世界に大聖人仏法を弘通した。
その創価学会の破壊を企てるということは、広宣流布破壊の大謗法であり、一切衆生の救済を目指された日蓮大聖人に背く大罪である。だからこそ、我々改革同盟は日顕が学会を破門したことを絶対に許すことなく、戦うのである。 日顕宗との戦いは「法主信仰」という大聖人の仏法からかけ離れた「迷信」との戦いでもある。日顕らは「法主に従わなければ成仏できない」という迷信で自らの権威を護っているが、その迷信を支えているのが「僧俗差別」である。
早瀬を含めた日顕一族は僧侶の子供であるという生まれにこだわっている。だから僧俗差別は二重の差別になっており、宗門では、僧侶であっても寺族出身と在家出身という差別が厳然と存在している。このような差別こそ、釈尊が憎んだ外道義である。


差別的な迷信を打ち破った釈尊と日蓮大聖人
 そもそも、仏法の歴史は人間の尊厳を踏みにじる差別的な迷信との闘争の歴史とも言える。釈尊の敵は当時の「生まれ」による差別であり、たとえ生まれ変わってもその差別を逃れることができないという固定された「輪廻」の迷信であった。釈尊は「生れを問うことなかれ。行いを問え」と説き、その結果、差別的な迷信を打ち破ったのである。
大聖人もまた、「一生成仏」を説き、当時の「歴劫修行」「色相荘厳な仏」という迷信を破折され、「凡夫即極」の道を開き、その信仰を守るために宗教的権威と生涯、戦い抜かれた。
ところが、日顕らは今回の宗門事件の中で、この大聖人の教えに真っ向から背き、「法主に従わなければ成仏できない」「成仏にも僧俗の差別がある」という邪義を唱えて邪宗門と化した。
その日顕らの邪義に対して、創価学会は「大聖人直結」「御書直結」を掲げ、日顕らの「法主絶対」「僧俗差別」という迷信を打ち砕き、大聖人が示された自立した信仰の道を見事に復興させたのである。
すなわち、創価学会こそ、「仏性」という一人の人間の偉大な可能性を説いた釈尊と、万人に「仏性」を開く道を開かれた日蓮大聖人の精神を正統に受け継いでいる唯一の団体なのである。


迷信に蹂躙される信徒と在家出身の僧侶たち
 それにしても哀れなのは、邪宗と化した宗門につき従っている信徒である。どんなに彼らが信仰に励んでも、決して僧侶を超えるどころか、肩を並べることさえできない。また、成仏の世界においても、僧侶の下に置かれる。これが宗門の迷信にとらわれた姿である。
また、僧侶の世界においても、僧俗差別により在家出身の僧侶は冷遇され、無任所教師の場合は住職になる道まで閉ざされつつある。
最近、中村道史ら五名の僧侶が還俗しているが、無任所教師にとっては吉報となる。なぜなら、住職が還俗するということは自分たちが入る末寺が空くという意味であり、所化が還俗すれば住職になるライバルが一人減ることになるからだ。
だから、本山にいる無任所教師たちは、「誰が死にそうか」「誰か住職が還俗しないか」と、住職の不幸を心待ちにしている。
ところが、最近の傾向として、大寺院の場合、その住職の息子が後任の住職になるケースが増えている。なし崩し的に住職の世襲化が始まっているのだ。そうすると、在家出身の僧侶たちは寺が空いても常に後回しにされることになる。


宗門を根底から脅かす無任所教師問題
 実はこの無任所教師の問題は深刻である。場合によっては宗門にかつてない大打撃を与える。
宗門の末寺の数は限られており、今後、減ることがあっても増える見込みはない。現在の住職数が約六百名である。それに対して無任所教師は二百名を超えている。しかも、日顕の見栄のために作った法教院を存続させるため、毎年二十名近い得度者を募っている。つまり、毎年、自動的に無任所教師が二十名ほど増える計算になる。もちろん、所化の段階で還俗する者が後を絶たないので、実際にはもう少し減るかもしれないが、十年単位で考えれば、住職の死亡や還俗を考慮しても、百名以上の無任所が増えていくことになる。
数十年経つと、住職よりも無任所教師が多いという異常事態が生まれるのだ。しかも、信徒数が増えるとは思えない。現在の宗門の信徒の年齢構成を見ると、圧倒的に高齢者が多い。ということは数十年後には信徒数が半減している可能性もあるが、それは供養の半減を意味する。そしてそれは同時に宗門の破滅を意味する。
「袈裟をかけ懶惰懈怠なるは是仏在世の六師外道が弟子なり」(御書 九五八頁)¦¦宗門のこの衰退していく姿こそ、仏法の因果を無視した外道義を説く邪宗門の末路なのである。(編集部)

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