新・改革通信 NO.76 (2007.11.28) 「信者だけの組織」を排除するための「破門」は失敗し、師弟の絆の前に、日顕の野望は、すべて打ち砕かれた!
日顕らの説く「信徒の成仏」を正しく定義すればこうなる。”あくまでも信徒は僧の下であり、僧侶に供養して、僧侶の家族を支えるのが信徒の役割である。そのことに撤することが信徒の幸福である”。
すなわち、”主人に仕える奴隷のように、仕えることに喜びを感じろ”というのが、日顕宗の信徒に対する教えの根幹である。
かつて、宗門は”成仏の中にも僧俗の差別がある”と述べていたが、これはあくまでも世間の目を意識して書かれたものである。彼らの本音はもっと汚く、言葉にすれば、”信徒の分際で成仏を望むこと自体が不遜である”ということになる。
日顕は学会を破門した後に「近年において創価学会が現れ、信者だけの組織による仏法流布が試みられました」(平成五年一月 西九州親教)と述べていた。日顕の目から見た創価学会は「信者だけの組織」であり、その「信者だけの組織」が仏法を流布することは許されないということだ。
そして、その「信者だけの組織」の頂点に立つ池田名誉会長が日顕の最も憎むべき存在であった。そこには、単なる嫉妬という言葉では言い表すことができない常軌を逸した憎悪がある。
日顕が創価学会を破門した真の理由は、”宗門の歴史から、信徒が主導権をとった歴史を消し去る”ことであり、”その偉業を成し遂げた池田名誉会長を葬り去る”ことであったのだ。
すなわち、他の日蓮教団に負けない勢力と、贅沢な生活を維持するための供養が日顕の目当てであった。
そして、「信者だけの組織」を排除した後に、自分を頂点とした勝手な歴史を作るのが日顕の野望であった。
ところが、日顕は大きな計算間違いを犯した。創価学会は宗門から破門されても微動だにしなかった。否、かえって破門を「魂の独立記念日」として、創価学会は「宗教改革」に喜び勇んで出発し、日顕の野望を見事に粉砕したのである。
なぜ、日顕が誤算したのか。理由は、日顕に「仏法の師弟」が理解できなかったからだ。そもそも傲慢で信仰心のない日顕にとって、法華経に説かれる師弟の意義も、そして御書に貫かれている師弟の精神も、別次元のものと言ってよい。だから、池田名誉会長と会員の強靭な師弟の絆の前に、「破門」の脅迫など通用せず、日顕の野望は崩れ去ったのである。
また、日顕は創価大学を真似て、自分の弟子の勢力を拡大するために、「法教院」を作った。しかし、いくら建物を作り上げても、師弟の精神がなければ、人は育たない。無試験も同様の、この「法教院」の存在が、学生の勉学の向上心を奪い、快楽しか求めない僧侶、ミニ日顕を量産している。
それだけではない。今まで、何度も述べてきたように、この日顕の自己満足の「法教院」が、毎年、一億円という膨大な経費を食い、無任所教師を大量に生み出して、宗門の自滅に拍車をかけている。
日顕は、この”無用の長物「法教院」”のことを批判されることが、余程、頭にくるようだ。問題点を指摘されれば、されるほど、ムキになって「大学科は成功している」と言い出す。そして、今度は、設立二十周年を記念して、日顕の肝入りで弁論大会を開催するという。日顕は何としても、この「法教院」を存続させるつもりのようだ。
早瀬日如が内心で「法教院」の閉鎖を考えていても、八木と信彰に脇を挟まれている限りは、何もできない。毎年、二十名前後の無任所教師が生まれ、その生活を支えるため、経費が雪ダルマ式に大きくなっていくのを、ただ傍観するしかない。
信徒は増えず、入る寺のない無任所教師が、三百、四百と増えていけば、どうなるのか。経費の問題だけでは済まなくなるであろう。新たな勢力争いが始まることは間違いない。
そのような事態を防ぐためにも、すぐにでも「法教院」を閉鎖すべきである。宗内の誰もがそう思っているはずだ。しかし、誰にもそれができない。
「絶対的権威は、必ず堕落して滅ぶ」と言われる。今の宗門がそうだ。どんなに間違った道を進んでいても、阿部一派は自分の過ちを認めることはしない。彼らにとって、過ちを認めることは権威を失い生活の糧を失うからだ。しかし慢心の第六天の魔が全てを破壊してきた因果は、厳然と自らの命を破壊していくことだろう。(編集部)