新・改革通信 NO.83 (2008.02.15) あらためて明らかになった宗門の存在意義

宗門を「反創価学会の団体」としてか取り上げないマスコミ
世間から見れば、創価学会の影としての存在でしかない!
 明日、二月十六日は、宗祖日蓮大聖人が御生誕されてから、七百八十六年目となる。大聖人の六十一年の御化導は、不惜身命の一語に尽きる。一切衆生救済の誓願を果たすため、種々の大難に遭い、極寒の佐渡に流された。
 この大聖人の崇高な精神を受け継いだのは誰か。それは歴史に厳然と残されている。
 牢獄にあっても看取を折伏し、取調べにおいても堂々と正義を主張した牧口・創価学会初代会長。そして、その偉大な師と共に投獄され、獄中で「仏とは生命である」と覚知された戸田・二代会長。そのお二人の遺志を受け継いだ池田・三代会長も投獄され、権力と対峙した。
 民衆救済の誓願に生き抜いたこの三代の会長こそが、大聖人の信心の血脈を継いでいるのだ。


常に「主役」は創価学会
 去る二月三日、宗門は大阪の京セラ・ドームで大会を開き、週刊誌が記事にして掲載した。中吊りの広告には次のような見出しが載った。
「反創価学会」3万人が大阪に集結した「大石寺」決起集会 
 この見出しを読んで分かるように、彼らが注目しているのは、「信徒倍増」という大会の意義ではなく、「反創価学会」という存在なのである。すなわち、「日蓮正宗」そのものには興味がなく、主役は創価学会なのである。
 マスコミにとっては、反創価学会キャンペーンに使えれば、それがどんな団体でも構わない。今回はたまたま、それが宗門であったというだけだ。
 実際に集まったのは、せいぜい、二万五千人程度である。しかし、マスコミにすれば、多いほうが記事になる。彼らは宗門のためではなく、自分たちのために水増しして書いているのである。


今の宗門には「反創価学会」としての意義しかない
 裏を返せば、創価学会の存在がなければ、宗門が世間の注目を浴びることは有り得ないということだ。まるで、創価学会の影である。太陽が昇るからこそ、影ができる。太陽の存在がなければ、影は存在しない。
 簡単に言えば、今の宗門には「反創価学会」としての意義しかないということだ。
 しかし、これは、決してマスコミだけの責任ではない。宗門の自業自得なのである。
 今までに、何度も述べてきた通り、日顕宗は日顕の池田名誉会長と創価学会に対する憎悪から生まれた団体である。
 未曾有の世界広宣流布を成し遂げた池田名誉会長に嫉妬した日顕が、「C作戦」という謀略で、創価学会を破門にし、その日顕の暴挙に与同した者たちによって生まれたのが、今の宗門、「日顕宗」である。
 その結果、彼らのすることは、すべて、池田名誉会長と創価学会に対抗することが目的になる。今回の「信徒倍増」も、その根本には、日顕の”創価学会に負けない勢力を作りたい”という歪んだ欲望がある。そして、日如もその日顕の「命題」という言葉でカモフラージュされている嫉妬心を引き継いでいる。
 だからこそ、今回のように、マスコミの反創価学会キャンペーンに利用されるのだ。


宗門にとって信徒は利用する材料
 宗門の行動は、常に創価学会への対抗意識から生まれている。ということは、必然的に、信徒はその学会に対抗するための材料であり、僧侶の生活を支える糧でしかないということになる。
 折伏においても、日顕らには、民衆救済という誓願のかけらもない。宗門の折伏の目的は、ひとつには創価学会への対抗であり、もうひとつには、僧侶の安定した生活を実現するために、供養する信徒を増やすことである。だから、「信徒倍増」という言葉だけで情熱が生まれないのである。
 宗門の僧俗差別は根深く、僧侶は号令をかけるだけで、実際に動くのは信徒であるという意識が消えない。だから、一向に折伏は進まない。
 今回の彼らの京セラ・ドームでの大会における信徒の待遇を見ても、宗門の信徒蔑視の体質が如実に現れている。そこには、信徒の安全というものはまったく考慮にない。まず、僧侶の安全と待遇が優先される。
 特に信徒の輸送計画は、高齢者を長距離にわたって歩かせたり、食事を満足にさせなかったり、睡眠も十分ではなく、無謀としかいいようがない。これでは、いつ事故がおきてもおかしくない。とても、創価学会の行事では考えられないことだ。


反創価学会の感情で我慢している信徒たち
 宗門の多くの信徒が住職たちに多くの不満を持っている。しかし、それでも信徒たちが、今の宗門に対して我慢しているのは、”反創価学会”という感情による。もし、今、自分たちが露骨に不満を言えば、反創価学会の運動に支障がでると考えて、敢えて何も言わないのである。
 しかし、こういう感情は長続きしない。その証拠に、この数年、以前にも増して信徒のクレームが増えている。時間が経てば経つほど、この憎しみの感情は薄くなり、それに比して、宗門に対する不満が激しくなってくることは間違いない。「只今に自界反逆難とてどしうちして」(御書二八七頁)とはまさにのこのことである。
 そういう意味では、宗門が自壊するのは時間の問題である。(編集部)

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