新・改革通信 NO.92号(2008.11.07)駒井の役職解任が暗示するものは・・・日顕派追放の兆しか。異体異心の宗門の行き着く先は「監視」と「密告」の醜い世界

悪名高い、コマセンこと駒井専道(観行坊住職)が九月七日付で大石寺理事、御本番、一夜番御宝蔵番をすべ
て解任され、上野幼稚園の理事長職も失ったというニュースが宗門を駆け巡り、様々な憶測を呼んでいた。

 本山周辺から流れていた話は、駒井の金銭問題が発覚したということである。駒井は理事の立場を利用して、大石寺の弁当の発注を一手に引き受け、長年、業者からリベートを受け取っていたという。

 弁当といっても、三十万登山や毎年の同心会等の弁当であるから、相当の金額になるだろう。駒井について言えば、信心を利用して金儲けをしていたのだから、仏罰を逃れることはできない。

 大事なことは、この駒井解任事件は、単なる個人の問題ではないということである。日顕時代に発覚しなかった問題が、今になって発覚した、その背景こそ問題なのである。

「C作戦」の情報部隊として動いていた駒井
 駒井の悪行について、宗門で知らない者はない。そんな札付きのワルが、本山の理事になることができたのは、日顕に巧妙に取り入ったからである。

 駒井は「C作戦」の情報収集部隊として動いていた。その証拠に、既に平成二年五月ころ、当時、御仲居をしていた駒井の机の上に池田名誉会長のスピーチを盗聴したテープが置いてあったのが目撃されている。

 その二ヶ月後、あの七月、駒井は大坊食堂で所化に対し、学会批判の週刊誌を片手に「この先何があるかわからない」と発言している。

 そして、いよいよ「C作戦」実行が間近に迫った十一月二十五日、駒井は本山の僧侶に「創価学会はもう日蓮正宗ではない」と発言し、さらに、十二月二十四日、学衆課の忘年会で「元旦から学会員の登山が出来なくなる。学会が離れても構わない。来年は創価班も本山から引き揚げる。輸送センターも必要なくなる。二十七日の宗会で”あること”が決定する」と発言した。その”あること”が、池田名誉会長の法華講総講頭の罷免であった。

すべてを知っている駒井は、悪事をしても咎められなかった
 このように、駒井は、「C作戦」の全貌を知っていたし、ある意味では、駒井は「C作戦」実行の追い風を作った張本人とも言える。

 なぜなら、駒井が日顕に差し出した、池田名誉会長のスピーチを盗聴したテープが、「C作戦」実行のための根拠となり、その反訳が「お尋ね」文書で使われたとも言われているからである。

 ここまで「C作戦」に深くかかわった男を処分すれば、何をしゃべるか分からない。だから、駒井は悪事をしても、咎められずにいたのである。

日顕の威光が衰えたから、駒井は処分された
 その駒井が日如の時代になって、突然、悪事がばれて処分された。これは何を意味しているか。

 すなわち、駒井が頼みの綱としていた日顕の威光が衰え、日如の影響力が強くなっているということだ。

 日如派にとって、日顕の言いなりである駒井は危険な存在だ。おそらく、誰かが駒井の悪事を密告でもしたのだろう。

 おそらく駒井は、今まで通り、日顕の威光を借りて何とかしのげると思っていたのであろう。しかし、駒井を守る者は、もう誰もいない。

 先日、元法道院在勤であった吉田道善が内事部のセンター長になり、日如の義弟である主任理事の佐藤慈暢は随分やりやすくなったようだ。

 その影響か、少しずつ、本山の雰囲気が変わってきている。つまり、日如の機嫌を伺う者が少しずつ、増えているということだ。

 この駒井の処分は、日如が日顕の匂いのする者の追放を始めたことを暗示していると言う者もいる。かつて、日顕が達師の匂いのするものを全部、処分させたように。

「密告社会」化していく宗門
 今、宗門の住職が恐れていることは、「密告」である。最近、処分されている住職のほとんどが、信徒による投書が原因であると言われている。

 今の宗門に「広宣流布」の大願はない。ということは、異体同心の信心もないということだ。異体同心の「同心」とは「広宣流布を目指す信心」である。しかし、今の宗門は誰もが、”自己の保身”しか考えていない。だから、宗門は「異体異心」である。

 「異体異心」の世界は、疑心暗鬼の世界でもある。誰もが他人を妬み、足を引っ張ろうとする。そのために、互いに監視し合い、他人の落ち度を見つけるなり、密告する。

 今までは、信徒が密告するというパターンであったが、今後は、日如派の住職が、日顕派の住職を密告するということが起こるであろう。

 日顕の威光を借りて、甘い汁を吸っていた者が、ターゲットになる。その一人目が駒井だったと言われている。

 宗門が創価学会を破門したことは、広宣流布を妨害する「破和合」の大罪である。創価学会の存在により、何とか宗門は広宣流布の信心につながることが出来ていた。しかし、宗門はその「信心の血脈」を自ら切断したのである。それが如何に罪深いことか、これから宗門の住職たちは本山・末寺で眼前に起こる現証を目にすることであろう。(編集部)

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