新・改革通信 NO.93号(2008.11.28)”出家”の思い上がりを象徴した創価学会の”破門”  その傲慢さが宗門を破滅に追いやる

平成三年十一月七日、宗門は創価学会に対して、「解散勧告書」を送付し、それに従わないからという理由で、
同月二十八日、「破門通告書」なるものをつきつけて来た。

簡単に言えば宗門は”在家のくせに生意気だ”という感情から、創価学会に制裁を加えようとしたということだ。

当時の宗門は、”信徒は権威で脅かせば、ひざまずく”と思い上がっていたのだ。

 そもそも、創価学会は独立した法人であり、それを宗門が破門することはできない。

“血脈信仰”という迷信はもう通用しない
しかし、彼らは”血脈信仰”という迷信が、まだ通用すると思い込んでいた。

 すなわち、宗門の言う「破門」とは”学会に対して、血脈を絶つ”という意味だ。

分かりやすく言えば、水道局が一般家庭に対して供給する水を止めるというようなものだ。

 この馬鹿げた発想には、水(血脈)は自分たちの占有物だという思い上がりがある。

しかし、水(血脈)はすべての人に平等で、誰かの占有物ではない。その人の信心で、どこにいても受けることができるのである。

大聖人が大御本尊を顕したのは何のためか。

大聖人は「一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとするに」(御書全集 一三三七頁)と仰せである。

すなわち、御本尊により、万人に直接「仏になる血脈」を受けさせるためである。それこそが、大聖人の出世の本懐であったはずだ。

その真実に目覚めている創価学会員には、”迷信”は通用せず、宗門の思い上がりは一笑に付されたのだ。

迷信にすがる宗門はすでに”死に体”
創価学会は、一人一人の自立した御本尊根本の信仰の上に成り立っている。だからこそ、どんな難を受けても乗り越えることができる。

しかし、宗門はそうではない。今の宗門は「血脈信仰」という”迷信”にすがっているようなものだ。

 そして、その”迷信”に依存しているからこそ、僧侶たちの信心は堕落する。”宗門から離れれば、血脈はなくなる”という脅しが通用し、自らの信心を深める必要がないからだ。

戦時中もそうであった。宗門は「檀家制度」と「血脈信仰」という”迷信”の上に、長年あぐらをかいていたために、信心を見失っていたのだ。だから、国家権力を恐れて、神札を受けるという謗法を犯してしまった。

また、”迷信”を信じている信徒たちは、常に僧侶を批判することを恐れてしまう。目の前にいる住職たちの堕落を見ても”見ぬふり”をしている。だから、僧侶は思い上がり、いよいよ堕落する。悪循環である。

そういう意味では、すでに宗門の僧侶は信心を失い、「死に体」なのだ。

ただ、檀家制度と同じで、”迷信”が効力を発している間は、僧侶たちは”衣の権威”で、信徒を支配できる。
たとえば、「塔婆供養をしないと故人は成仏しない」などと、信徒の弱みに付け込んで供養させることもできる。

だが、信徒が自立した信心に目覚めた時、それらの見せ掛けの手段はすべて崩壊する。

“迷信”を崩壊させた張本人は日顕
「血脈信仰」という”迷信”を崩壊させた張本人は他ならぬ、日顕である。

なぜなら、血脈を占有しているという日顕が、シアトル事件、芸者写真問題、高級料亭での豪遊など、枚挙に暇がないほど、卑しい姿を自ら満天下に示した。

そんな堕落僧が「血脈は絶対」などと言っても誰も信用しない。かえって、”血脈とはまやかしにすぎない”と信徒に思わせるだけだ。

それでもまだ「血脈信仰」に惑わされていた壇徒の目を覚ましたのが、「正本堂破壊」という日顕の暴挙であった。特に海外では、壇徒がその事実を知って、なだれをうって脱講した。

そして極めつけは、日顕の「大御本尊偽物」発言であった。宗門が「伝家の宝刀」として利用していた大御本尊を、日顕自ら否定したのである。その時点で、法主の権威も、そして血脈の威信も崩壊したも同じである。

出家の慢心が宗門を潰す
 今、世界は百年に一度という大不況である。いよいよ日本でも、実体経済に影響が出はじめ、リストラが始まった。新卒の内定までが取り消されたり、中小企業の倒産という深刻な事態になっている。

そんな時に、日如らは、今まで以上に信徒から供養を集めようとしている。その感覚が異常なのだ。

 彼らが供養を集めようとすればするほど、信徒は苦しみ、脱講していくだろう。しかし、宗門の僧侶たちは自分のことにしか興味がないから、そのことが分からない。

衣を剥ぎ取られて、社会に放り出されれば、何も出来ない者たちが、信徒をあごで使う。この「慢心」が、宗門を潰すことは間違いない。(編集部)

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