新・改革通信 NO.127 (2011.12.16)「御本尊には功徳の差はない」と日如が指南 「信力・行力が大事」と、まるで創価学会の指導

 「我々が持つところの御本尊には、功徳の差は全くありません。功徳の差が出るのは、御本尊ではなくして、我々の信力・行力であります」
 ”御本尊には差別がない”、”大事なのは信力・行力である”。これを読むとまるで、創価学会の指導である。
 しかし、これは今年八月二十五日に行われた「全国教師講習会閉講式」で、日如が「日女御前御返事」の
「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり‥‥南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり。信心の厚薄によるべきなり」
との御文を引いて話した内容である。


創価学会を擁護するような日如の指導
 宗門は盛んに”創価学会授与の本尊には功徳がない”と騒いでいるが、そのトップである日如が”学会擁護”の指南をしている。
 日如の言う通り、「心力・行力」こそが、信心の根幹である。大聖人は「明鏡たる本尊」(御書七六三頁)と仰せであり、私たちは胸中の御本尊を「明鏡」に映して拝す。その「明鏡」に映す御本尊の仏力・法力を湧現させるのは私たちの信力・行力である。


「広宣流布」は創価学会の役割と言っていた宗門
 日如の指南は日顕と違い、学会の指導に似ている。例えばこの時の指南の中に次のような言葉がある。
「私達は、広宣流布という高い理念の上に立って『立正安国論』の御理想実現を目指して戦っているのです」(「大日蓮」平成二十三年十月号)
 かつての宗門では
「広宣流布」は創価学会の役割、僧侶は「令法久住」、法華講は「法統相続」と言っていた。
 ところが今は、法主が「広宣流布のために」と号令をかけている。いつから、宗門は創価学会の真似を始めたのか。


学会版「御書講義」で学んだ日如は無意識で学会指導を使う
 引用した指南の中で、日如は「目指して戦っている」という言葉を使っているが、この「戦う」はまさに創価学会の指導用語である。
 日如は今回の宗門問題が起こるまで、御講で話す時には創価学会版の「御書講義集」を参考にしていた。だから、自然に学会指導が身についているのだろう。


宗門には「御書講義」の本がないから、
身延派の講義集を使っていた住職もいる
 実は宗内の住職のほとんどが創価学会版の「御書講義集」を御講の原稿を作る際に参考にしていた。
 なぜなら、宗門には他に講義集がないからだ。どうしても学会版の講義集を使いたくない者は、身延派が使う「日蓮聖人遺文全集講義」を参考にしていた。


「人格を磨いて」と言うなら、日如こそ、
過去の暴力を反省すべき
 先ほどの指南の続きに
「まず私達自身がきちんと人格を磨いていかなければなりません」とあるが、日如こそ、自分の過去の暴力を詫びて、人格を磨くべきである。
 新宿・大願寺の住職の時に、日如は毎日のように、所化を殴りつけていた。ガラスの灰皿を投げ付けられた者、十数発の往復ビンタを受けた者、ひざ蹴りを食らった者もいる。
 だから、大願寺は所化の間では「地獄の大願寺」と呼ばれていた。日如は信徒に指南する前に、まずは己の過去の暴力を詫びるべきである。

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