新・改革通信 NO.146 (平成30年8月30日) 渡邉慈済住職の証言―日蓮正宗と創価学会の初期の交流・本山編(5)

擯斥されたはずの小笠原が本山に
いたことに驚いた学会青年部
 宗内にはいないはずの小笠原氏が、昭和27年4月の立宗700年慶祝大法要に、登山してきたのであるから、学会青年部は驚いた。以下、渡邉慈済住職の証言である。
 昭和27年4月27日、総本山の寂日坊に小笠原がいることを見つけた柏原ヤスさんは青年部と共に法論をしましたが、なかなか解決がつかず、最後に戸田先生が理境坊より来られ、やっと静かに話し合いが続けられました。


3人の僧侶が立ち会い
 戸田先生は後日のために、寂日坊を宿坊としている愛知の小川慈大氏と北海道の阿部法胤氏と私(寂日坊の息子の所化として)の3人が立ち会うことになりました。
「後日の為に私達は法論をするだけで、暴力行為は一切しませんから立ち会ってください!」と言われ、私は最後までその場にいて一部始終を見ておりました。
 最後に小笠原慈聞がふてくされて白衣まで脱ぎましたが、確かに暴力行為はありませんでした。
それなのに宗門では、学会青年部が暴力を振るったと決めつけ、戸田会長に三つの罰則として(一、謝罪文を書きなさい。二、登山をしてはいけません。三、大講頭を辞職しなさい)と突き付けて来ました。
 学会が行った行為は、広布の為の正義の主張です。この罰則を一つでも受けたなら、広布の妨げになります。故に青年部は、特に池田先生は全国15人の宗会議員の所へ、連日対話をして、撤回すべく努力を重ねました。十月になり、やっと罰則は撤回されました。(手記より)

 小笠原は真相を捻じ曲げ、学会から暴力を受けたと言い出した。戸田会長は、この事件の真相について、立ち会った3人の僧侶に事情を聞いてもらいたいと宗務当局に要望したが、宗会に渡邉慈済住職が呼ばれて事情を聞かれることはなく、一方的に戸田会長の”処分”が決定されたという。
 宗門が問題にしたことは、慶祝法要中に騒ぎを起こした事と、法衣を着た者を信徒が問い詰めた事である。しかし、学会側から見れば、そもそも宗門は小笠原が僧籍に無い事を正式に認めていたのだから、宗門と関係ない悪侶を問い詰めた学会側に非はないとなる。 この事件は、当時の宗門の信徒蔑視の体質が現れた事件だとも言える。渡邉慈済住職は次のように指摘している。
 衣の権威で罪を一方的に信徒にかぶせて、何の反省もしないという悪しき僧侶の体質を露呈する事件となった。残念ではあるが、宗門僧侶がその後、根深く、反学会感情を持ち続けることになる”根源の事件”になってしまったのである。(『日蓮正宗落日の真因』より)
 
 この事件の主役であった小笠原は日昇法主から「誡告文」を送られ、逆上して日昇法主を脅迫罪で告訴し、最終的に宗門に問い詰められ、「神本仏迹論」を二度と筆舌しないと約束している。宗門は矛先が自分たちに向けられ、やっと目が覚めたのである。(末寺編に続く)

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