新改革通信 第170号 宗門問題を理解するために」(5) 令和4年4月20日

新改革通信 第170号

宗門問題を理解するために」(5)
 僧侶の着る「袈裟・衣」は「糞掃衣(ふんぞうえ)」とも言われます。捨てられた衣類や汚れた布で作った衣という意味です。本来、出家者は衣類を含めて財産を持つことを禁じられており、修行僧は執着を離れるために粗末な衣を身に着けていたのです。
 その粗末な衣がいつの間にか華美になり、宗教的権威の象徴となってしまいました。その「衣の権威」に惑わされないために、今回はその正体を論じていきます。


宗門問題により浮かびあがった衣の権威の正体

1、法主を神格化し、自分たちの権威付けにしている宗門

 仏の原語であるブッダは「悟った人、目覚めた人」の意味で一般名詞に近く、釈尊だけのことを指すわけではありません。初期の仏典では、すぐれた修行者たちはみなブッダと呼ばれています。それがやがて釈尊だけをブッダと称するようになります。
そして伝統部派教団は、釈尊の境地は特別なものであるとして、釈尊が「私は人間ではない。仏陀である」と語ったと、神格化された釈尊像が形成されていきました。そして男性出家者のみが釈尊に次ぐ者であると、僧侶の権威が作られたのです。
 今の宗門も同じです。彼らは「一切衆生が成仏したとしても、仏界大聖人が上で九界信徒が下であることは、論ずるまでもなかろう。それが、大聖人御入滅後においては、唯授一人血脈付法の御法主上人が上で、一切の大衆は下となるのである」(宗門文書「『化儀抄』を拝して」を破す)と述べています。九界即仏界である大聖人の教えを捻じ曲げるだけでなく、法主は大聖人と同じであると神格化して、“住職はその法主の名代である”と僧侶の権威付けに利用しています。

2、僧侶の権威を守るため、御本尊にも差別があると説く宗門

 宗門の僧侶は“信徒の家の御本尊は「仮の本尊」だから、寺院に参詣して寺院の御本尊に唱題しないと功徳はない。宿命転換したいのなら、本山(大石寺)の大御本尊にお目通りしなければならない”という言い方をします。大石寺と寺院の権威付けのために、御本尊に差別を設けているのです。
 しかし、日蓮大聖人は「此の御本尊全く余所に求ることなかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」」(日女御前御返事)と、御本尊は私たちの胸中・生命にあり、余所に求めてはならないと仰せです。
宗門が胸中の御本尊を余所にあるように教えるのは、自分たちが御本尊と衆生の間に介在するためです。御本尊直結の信心を認めてしまえば、僧侶の権威が無くなります。彼らはそれを恐れているのです。

3、本山を聖地化して、世界宗教の道を自ら閉ざした宗門

 古来、大石寺の大御本尊は広宣流布の時まで秘蔵されるものとされていましたが、特別な縁故の者などに非公式に参拝させる「内拝」という特例がありました。非公式な「内拝」であるにもかかわらず、宗門は“大御本尊にお目通り、登山(大石寺に行くこと)をしないと成仏できない”と御本尊を利用して、大石寺を聖地化しています。
 もちろん、大聖人の時代に登山会などはありませんでした。大聖人は佐渡の千日尼へのお手紙に「御面を見てはなにかせん心こそ大切に候へ」と仰せです。大聖人を求める心こそ大切であり、距離は関係ないのです、
 オックスフォード大学名誉教授のブライアン・ウィルソン博士は、「特定の“聖地”に行かなければ信仰が全うできないとするのは、世界宗教の要件を欠く」と指摘しています。遠く離れた国の人々に“本山に来ないと成仏できない”と言うのは、その人々の成仏の機会を奪う無慈悲な行為です。

4、血脈信仰という信心以外のもので権威を作る宗門

 「血脈」とは、法が師から弟子へと受け継がれていくことを意味し、それを血の繋がりにたとえた言葉です。日蓮大聖人は「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとするに」(生死一大事血脈抄)と、末法の法華経たる御本尊を信受することにより、直接、人々に「仏に成る血脈」を受けさせることが、大聖人の願いであったことが明かされています。
 これに対して宗門は「『相承』『相伝』を離れた血脈は絶対にありません。学会でいう『大聖人と自分自身の問題である』との考えは、唯授一人の血脈を否定する邪説です」(宗門文書「血脈について」)と主張しています。
 この宗門の発想は、やはり、“大聖人と信徒の間に宗門が介在する”という理屈から生じているものです。「相承」「相伝」は法主の継承に関わることであり、直接、信心とは関係ありません。僧侶の権威を守るために、信心以外のものを作り上げ、「大聖人直結」「御本尊直結」「御書直結」を否定するしかないのが今の宗門なのです。
 大聖人は「袈裟を著すと雖も猶猟師の細めに視て徐に行くが如く猫の鼠を伺うが如し」(立正安国論)と仰せです。これは、悪僧は猟師が獲物を狙うように、猫がねずみを狙うように人間の心の弱さ、依存心に付け入ろうとするという、大聖人からの警告なのです。

 次回は「なぜ、宗門の僧侶は信心を失ったのか?」というテーマでお届けします。

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