新改革通信 第171号 「宗門問題を理解するために」(6) 令和4年4月25日

新改革通信 第171号

「宗門問題を理解するために」(6)
 宗門問題により、宗門の僧侶の無信心な実態があからさまになりました。宗門から離脱した私たちの証言だけではありません。全国の学会の方々からも、信徒を見下して遊興に耽る住職の恥ずべき姿が告発されました。そして同時に「なぜ、僧侶がこのように信心を失ったのか」という疑問を耳にしました。今回は、僧侶が信心を失った原因について論じます。


なぜ、宗門の僧侶は信心を失ったのか?

1、檀家制度により、生きている人を救うことを忘れた僧侶たち

 江戸時代の檀家制度の元で、幕府は積極的に寺院を優遇し、檀家の責務として、菩提寺への参拝、年忌・命日法要の施行、寺院への付け届けまでも義務と定めました。この他に寺院の改築費用や本山への上納金などの名目で、檀家は経済的負担を強いられました。中には、身分を証明する「寺請証文」の発行の権利を悪用し、檀家に必要以上の金銭を要求する僧侶もいました。
 この制度によって、寺院は布教をしなくとも、一定数の檀家を得ることができ、僧侶の生活は保障されることになりました。その結果、僧侶は生きている人を救うことを忘れ、葬儀や法事に専念するようになったのです。これが日本の仏教が「葬式仏教」と揶揄されることになった由縁です。

2、僧俗差別により信心がなくとも敬われる僧侶たち

 以前にも指摘しましたが、宗門は「僧侶は、総本山において修行し、血脈付法の御法主上人より免許を蒙った法衣を着ているのでありますから、大聖人の仏法の法位において、当然信徒より上席であります」(宗門文書「宗務院よりの指摘」)と主張しています。しかし、私たちの知る限り、本山で特別な修行などありません。信心の修行で比べるならば、僧侶の信心など、社会の中で働きながら、唱題・折伏をされている学会の方々の足元にも及びません。
 末寺の住職を見ても、日ごろから唱題もせずにゴルフやカラオケと遊興に励み、折伏もせず、その理由を「折伏は学会のやることだ」と言うのでした。それにもかかわらず、法衣を着ているだけで、信徒から「先生」と呼ばれて敬われることを当然のことと思っている住職がほとんどでした。
 “法衣を着ているから、信徒よりも上である”という差別意識が信心を失わせる原因の一つであったことは確かです。

3、法を守ることが僧侶の役目と言い、折伏を軽んじる僧侶たち

 法主であった日顕は「僧と俗は令法久住と広宣流布について一体の使命をもつものであります。ただし、一体といっても、その中に自ずから区別があります。すなわち僧侶はとくに令法久住という意義において、在家は折伏、広宣流布という面において、それぞれ重大な使命を担っているのであります」(宗門文書「お尋ね」)と述べていました。
 これは一見、役割分担のように見えますが、決して日蓮大聖人の教えではありません。何よりも、大聖人御自身が不惜身命の折伏行を実践されています。その弟子として血脈を受けていると言うのならば、難を受けても折伏をすることが弟子の証明です。そもそも折伏なき令法久住など、大聖人の仏法には考えられません。もし、役割分担を理由に折伏をしないのならば、宗門には大聖人の信心の血脈はないということになるでしょう。折伏を軽んじる理由を作ることによって、僧侶は信心を失ってしまったのです。
 それでも宗門は創価学会の皆様の信心、懸命なる折伏と外護の精神によって守られてきました。創価学会と和合していたからこそ、辛うじて信心の血脈につながっていたと言えるでしょう。その創価学会を破門し、宗門は自ら信心の血脈を断ち切ってしまったのです。

4、感謝を忘れ贅沢や遊興にふけり、人間としての成長を失った僧侶たち

 法主であった日顕は平成6年5月に「彼らは、ジーッと御供養して信仰やって、坊さんが堕落するのを待ってたんです」(全国教師寺族指導会)と述べていました。この発言は彼らが誘惑・煩悩に負けて堕落してしまったことを認めているものです。そして、その責任を自分たちではなく、供養した人々に転嫁しているのです。これは盗人が、「盗みを働いたのは、被害者がお金をたくさん持っていたからだ」と言うのと同じ理屈です。
 日蓮大聖人は「但正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ」(曾谷殿御返事)と仰せです。自分が罪を犯したのだから、正直にその罪を懺悔しなければなりません。
また、宗門の僧侶には供養に対しての感謝がありません。住職の中には、「供養させてやっているんだ。信徒は供養することによって功徳をもらうのだから、僧侶に感謝すべき」と言う者もいます。このような考えは僧侶というより、最早、人として恥ずべきことです。大聖人が「法師の皮を著たる畜生なり」(松野殿御返事)と言われている通りです。
 大聖人は信徒からの供養に対して「民のほね(骨)をくだける白米・人の血をしぼれるが如くなる・ふるさけ(古酒)」(松野殿御返事)、「白米は白米にはあらず・すなはち命なり」(白米一俵御書)と仰せです。大聖人は、供養の背後にある過酷な苦労を思いやられ、最大の賛辞の言葉を捧げられています。これが人としてあるべき姿、「振る舞い」なのです。宗門の僧侶は「贅沢」という魔に魅入られ、人間としての成長を失ってしまったのです。

 今後は読者の皆様の様々なご意見やご要望をお聞きし、不定期で配信します。

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