日蓮正宗問題研究6 – 平成の宗教改革を知るための「資料集」1
(2)資料紹介「ビデオ 友人葬」

 ここでは同ビデオの構成と主な内容を紹介します。

●島田裕巳氏(日本女子大学・助教授)へのインタビュー

 最近、葬儀のやり方や墓のあり方を含め、死者の弔い方について、色々と新しい形態のものが出てきている。これは、時代の変化に伴う社会的現象であろう。これまで、日本の葬儀は「家」や「村」のしきたりを守ることが基本となって、行われてきた。私は、葬儀の目的として、①死者を弔う、②生者を慰める、の2つの意味合いがあると思う。その場合、本来は誰かに任せるのではなくて、親しかった仲間で行うのが一番好ましいのではないか。そんな中で、創価学会の「友人葬」が僧侶任せ、葬儀屋任せの形式でなく、新しい葬儀として受け入れられているのは、非常に興味深い。葬儀の形態としては、一番基本的なものであるように思う。

●釈尊と葬儀(アニメーション)

 仏教の始祖・釈尊は、葬儀について、どのように考えられていたのだろうか。釈尊は晩年、弟子のアナンを伴って入滅の地・クシナーラへと旅立った。その折に、アナンは尋ねた。「尊者(釈尊)よ、あなたの御遺体に対して、我々はどうすればよいのでしょうか」。釈尊は答えた。「アナンよ、おまえたち出家は私の葬儀に関わる必要はない。どうか、おまえたちは修行に励み、自己の人間完成に努めなさい」。

 この遺言通り、釈尊の葬儀は在家の信徒のみによって行われた。

●佐藤弘夫氏(東北大学・助教授)へのインタビュー

 仏教は本来、人間の生き方を説いた教えであり、死んだ後のためのものではない。仏教研究の第一人者・中村元博士も述べているが、今の葬式仏教は仏教の伝統ではなく、江戸時代の檀家制度の名残である。この時代に「寺請制度」が敷かれ、国民すべてがどこかの寺に所属するように義務づけられた。寺は、権力の末端として民衆の監視役になり、その代償に幕府から特権を与えられた。そうした中で、寺は新しい法要式を次々と考案し、少しでも供養の収入を増やそうとした。こうして「葬式仏教」が日本に定着していったのである。

●串岡雄敏氏(日蓮正宗改革同盟僧侶)へのインタビュー

 わが宗祖・日蓮大聖人の残された御書を拝すると、大聖人御自身が信徒の葬儀を執行された記述はない。大聖人の仏法は「生きるための仏法」であり、「葬儀のための仏法」ではないのである。今の日蓮正宗は、葬儀を利用して信徒を脅しており、許されるものではない。私は、友人葬こそ大聖人の本当の教えであると思う。

●吉川幸道氏(同上)へのインタビュー

 創価学会の「友人葬」は、仏法本来の意義に最も適った葬儀と思っている。学会員は他宗の信者と違い、毎日自分で勤行・唱題に励んでいる。自らが修行に勤め、功徳を受けるのが本当の成仏なのである。また、成仏はあくまで御本尊の功力によるものであり、僧侶が引導を渡したから成仏が決まるというものではない。戒名や塔婆も、成仏には関係ない。戒名とは、元来出家をした者につけられる名前であり、出家をしない一般の人に戒名をつける必要はない。今の日蓮正宗は、戒名を商品のように考え、信者に売りつけている。宗門がここまで堕落した要因は、自身の修行に励むべき僧侶が、信徒の葬儀・法要に関わるようになったことである。

●樋口謹一氏(京都大学・名誉教授)へのインタビュー

 私は、創価学会の「友人葬」を心から尊敬する。なぜならば、「友人葬」は仏教の原点を重んじているからである。仏教では、「聖」と「俗」の間に差別などなく、ともに平等である。職業的宗教家は、どうしても金儲けに走りがちであり、非職業的な信徒にこそ、仏教の重点は置かれているのではないか。その意味では、むしろ「聖」よりも「俗」に重点が置かれている。悪しき因習を打ち破り、人間の尊厳を取り戻したのが「友人葬」。「友人葬」の運動を伸展させることは、「平成の宗教改革」のために大いに役立ってゆくだろう。