新・改革通信 NO.69 (2007.06.15) 日顕宗は日顕の「コンプレックス」の産物(1)

信徒を利用するための、見せ掛けだけの僧俗一体!
日顕宗の折伏成果は、相変わらず低迷している。特に、総監の八木と庶務部長の信彰は、宗内住職には、「信徒倍増!」と檄を飛ばしているが、自分たちの寺の折伏は惨憺たるものだ。
日顕らは上辺では「僧俗一体」などと言っているが、内心では、信徒に命令すれば折伏ができると思っている。”信徒を道具のようにみなす”、この姿勢こそが、宗祖大聖人の御精神に違背する「一凶」である。
現宗門は怨念の塊・日顕のクローン
創価学会を破門した当初、日顕は盛んに「僧侶主体の広宣流布」という言葉を使っていた。この言動の根底には日顕の池田名誉会長に対する嫉妬の念がある。それは提婆達多が釈尊に抱いた怨念と同じで、偉大な指導者に対するコンプレックスである。
日顕にしてみれば、同じ信仰をしていながら、池田名誉会長と自分の実力が違うということは受け入れがたいことだったに違いない。自分は僧侶で、しかも法主の子供である。なのに、在家の信徒に敵わない。何重にも屈折した心理である。
その日顕の怨念が「C作戦」を生み、宗門全体を巻き込んだ。と同時に、宗内僧侶も与同して、その日顕の怨念を受け入れたことになる。そして出来上がったのが、今の宗門である。
つまり、現宗門の体質の底には、この日顕のコンプレックスが厳然と存在しており、宗門自体が、日顕のクローンなのである。だから、早瀬日如以下、宗門の僧侶の言動には、常に日顕と同じように、”池田名誉会長への嫉妬”と信徒を見下す”慢心”が潜んでいる。
信徒利用のための偽りの僧俗和合
広い意味で言えば、宗門は「創価学会コンプレックス」と言えるだろう。折伏のできない僧侶集団は、折伏の団体「創価学会」に劣等感を抱いている。
宗門は当初、日顕主導で「僧侶主体の広宣流布」と意気込んでいたが、結局、肝心の僧侶があてにならず、折伏は一向に進まなかった。そこで宗門方針を変更し、「僧侶主体」という言葉を「僧俗一体」という言葉にすり替えた。
宗門は創価学会に対するコンプレックスから、”僧侶主導でも折伏ができる”ということを証明したかったのであるが、失敗した。そして、今度は少しでも創価学会の組織力に追いつこうと、宗門は宗門事件以前の創価学会と和合していた時代のことを、法華講相手に再現して真似しようと試みたのである。
しかし、所詮、コンプレックスから来た模倣である。真に僧俗和合を願っているのではない。信徒を利用するための形だけの和合であり、”信徒に折伏させる”という発想は変わらない。ましてや、創価学会と法華講では、その信心において天地雲泥の差がある。その結果、折伏は以前と同じで、まったく進まない。
信徒の幸福に関心がない日如たち
そもそも、日顕らにとって「折伏」「広宣流布」とは何か? それは”供養する信徒を増やすこと”に過ぎない。
四月十七日に本山で行われた正副宗務支院長会で、日如は「平成二十一年に向けて山内整備などの目鼻は付いた」と言い、八木は特別供養について「信者に供養の炎を燃え立たせるような指導を」と檄を飛ばした。
要するに、彼らの関心は自分たちのことと供養金にしかない。彼らの話に「信徒の幸福」という言葉が出てくることはない。
彼らに言わせれば、信徒の幸福は「僧侶に供養させていただける」ということである。だから、供養する信徒に感謝するという概念がない。「僧侶に供養することによって功徳があるのだから、供養させてもらっていることに信徒は感謝すべきだ」というのが、宗門の一貫した考え方である。
永遠に創価学会に依存する日顕宗
日顕の執着は”創価学会がなくても、やっていける”ということにある。しかし、今の日顕らの贅沢、宗門の資金はすべて、かつての創価学会からの供養である。そのこと自体、創価学会に依存していることになる。
もし、日顕が学会を破門した時に、それまでの供養金を学会に返還して、裸一貫から始めたのであれば、話は別だ。しかし、日顕らは、破門した創価学会の供養で、派手な生活を続けている。口では「創価学会は謗法だ」と言いながら、その創価学会の供養金で宗門の運営をもまかなっており、身は百パーセント、創価学会に依存している。ということは、宗門は永遠に創価学会に依存したままということになる。

長年の創価学会の外護により、今の宗門があるのは否定しようがない事実である。創価学会の存在がなければ、出家することがなかった者も大勢いる。すなわち、宗門の存在そのものが、厳然と破門された創価学会に依存しているのである。
そのことを忘れて、いくら日顕らが「僧侶主体だ」「僧俗一体だ」と叫んでも、すべてはコンプレックスの裏返しでしかない。提婆達多の人生が怨念を晴らすためのものでしかなかったように、日顕宗は日顕の怨念を晴らすための手段でしかない。
そして最も無残なことは、信徒はさらにその日顕らを生かすための糧とされていることである。(続く)

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