戦争責任への反省・謝罪なき宗門を断固断罪する--時代に逆行し、人権を踏み躙(にじ)るエセ法主の仮面を剥(は)ぐ

戦争責任への反省・謝罪なき宗門を断固断罪する--時代に逆行し、人権を踏み躙(にじ)るエセ法主の仮面を剥(は)ぐ


「軍歌」で幕を開けた平成3年

 「敵は幾万(いくまん)ありとても すべて烏合(うごう)の勢(せい)なるぞ」--。
日蓮正宗大石寺の平成三年は、軍歌『敵は幾万』の大合唱で明けた。満足げに聞き入る貴殿の表情は、今も忘れることはできない。

 前年の暮れの平成二年十二月二十七日。貴殿は、突如として池田名誉会長の法華講総講頭職を罷免(ひめん)し、いわゆる宗門問題が勃発(ぼっぱつ)した。その直後、本山の大講堂で開催された新年六日の「全国末寺住職・寺族初登山」の席上、本住坊の秋元意道住職が音頭(おんど)をとり、参加者全員で軍歌の大合唱をしたのである。

 すでに前年の暮れから、秋元ら本山内の若手教師は、『敵は幾万』の練習に余念がなかった。総講頭罷免前の十二月二十四日には、山内教師の集まりで、この軍歌の歌詞が話題にのぼるほどであった。

 この「軍歌事件」は、貴殿が最初から学会を善導(ぜんどう)するつもりなどカケラもなく、不倶戴天(ふぐたいてん)の「敵」と看做(みな)していたことを象徴的に示す事件といえよう。事実、参加したある老僧は、「これから、“戦争”が始まるぞ」とつぶやいたという。

 もともと、軍歌『敵は幾万』は『戦景大和魂』と題されていた。その歌詞は、

「斃(たお)るゝまでも進めよや 裂(さ)かるゝまでも進めよや」
「破れて逃(に)ぐるは国の恥 進みて死ぬるは身の誉(ほま)れ」
「むくろを馬蹄(ばてい)にかけられつ 身を野晒(のざらし)になしてこそ世にもののふの義といわめ」
など、戦争賛美の言で埋め尽くされ、非常に好戦的な歌となっている。

 それが、僧侶の会合で、大御本尊まします大石寺で、しかも本来平和の祈りを捧げるべき僧侶たちの口から、勇壮に歌い出されたのである。まことに異常な情景と言わざるをえない。

 一方、創価学会はどうだったか。貴殿らが軍歌を高唱していた同日、池田名誉会長は「第三十七回本部幹部会」に出席。“喜劇王”チャップリンの姿を通し、反戦平和の精神について、こう語った。「チャップリンは、(ナチスによる)『ユダヤ狩り』と戦う、この映画(『チャップリンの独裁者』)を大戦中に作った。最も人間的な『笑い』によって、最も非人間的な『暴力』と戦ったのである」と。

 「平和の闘士」を称(たた)えた学会と、「戦争賛美」の歌を大合唱した宗門と--。明と暗。戦争と平和。この象徴的な対比から、今回の宗門問題がスタートしたことを後世の歴史の一頁に明確にとどめておきたい。

宗門の積極的な「戦争加担」
 我々は、青年僧侶改革同盟として、昨年、一昨年と終戦記念日にあたる八月十五日に宗門の戦争責任を糾弾(きゅうだん)し、謝罪を要求してきた。しかし、貴殿は、宗門の責任者として、この問題を顧(かえり)みることも、反省・懺悔することもなく、頬(ほお)かむりを決め込んで、今日に至っている。

 その誤りは明確であり、いまだ戦争の傷跡が癒(いや)されぬ人々に背を向ける冷酷・非情な姿は、「一切衆生の異の苦を受くるは悉(ことごと)く是(こ)れ日蓮一人の苦なるべし」(御書七五八㌻)と、大慈悲をもって民衆救済に立ち上がられた御本仏の姿とは対極を成すものである。それ自体、仏法上の断罪に値することを今一度、私どもは貴殿に明言しておく。

 宗門は、第二次世界大戦の戦前、戦中に、事実の上で日蓮大聖人の教えに背(そむ)く「神札(かみふだ)の受容(じゅよう)」「御遺文の削除」「御書の発禁」「観念文の改変」等、数々の謗法(ほうぼう)行為を行った。

 ここで、先の戦争における宗門の加担の実態を順を追って振り返ってみたい。当時の宗門が、挙宗(きょしゅう)一致して戦争協力に狂奔(きょうほん)し、進んで軍部権力の走狗(そうく)となり下がっていた事実は誰の目にも明らかである。

 昭和十六年八月二十日、鈴木日恭法主をはじめ元法主や長老たちが集まって開かれた「上老会議」で「神札の受容」「御遺文の削除」「御書の発禁」「観念文の改変」「本地垂迹説の使用禁止」等が決定される。
 昭和十六年十二月八日、太平洋戦争開戦の日に日恭法主が「訓諭」を発する。
 「本日米国及英国ニ対シ畏クモ宣戦ノ大詔煥発アラセラレ洵ニ恐懼感激ニ堪エズ(中略)本宗宗徒タルモノ須ク聖慮ヲ奉体シ仏祖ノ遺訓ニ基キ平素鍛練ノ信行ヲ奮ヒ堅忍持久百難ヲ排シ各自其ノ分ヲ竭シ以テ前古未曾有ノ大戦ニ必勝ヲ期セムコトヲ
  右訓諭ス」
昭和十六年十二月、宗門はそれまでの軍事献金の労を早くも認められ、海軍大臣から次の「感謝状」を送られている。

「感謝状
今次大東亜戦争に際し国防充実の趣旨に依り献金を辱うし感謝に堪へず茲に深厚なる謝意を表す
昭和十六年十二月
 海軍大臣 嶋田繁太郎
日蓮正宗殿」

 太平洋戦争に入ってから、新年の大御本尊御開扉や開戦記念の毎月八日ごとに日恭法主の導師の下、全山あげて大東亜戦争必勝と武運長久(ぶうんちょうきゅう)を祈念。
 また、檀信徒の戦死者に法主自ら「報国院」「殉国院」「連勝院」「武功院」等の尊号を授け、「本宗宗徒の面目を全す」「本宗宗徒の無上の名誉と亀鑑(きかん)たるべし」などと持ち上げて、ひたすら戦死を賛美。
 昭和十七年一月、九州八幡教会主管の柿沼広澄氏が兵器類を作る資材にと、金属製の仏具を供出(きょうしゅつ)することに決め、同教会の本堂にて「仏具献納供養」の法要を修す。その際柿沼氏は「兵隊さんの鉄砲の弾丸になるのなら、一発必中の破邪顕正の弾丸になれ」と、自坊の仏具が弾丸となり、敵兵を一発で打ち殺せるよう御本尊に「御祈念申し上げ」たのであった。
昭和十七年九月、大石寺で恒例の日寛上人会が執行された。その行事の一環で上野村青年学校生徒の「銃剣術試合」が富士学林の校庭で行われ、理境坊住職・落合慈仁氏が審判を務めた。だが、その趣旨は「米英の鬼畜(きちく)の落下」に備え「撃ちてし止まむの気魄(きはく)」で敵兵を刺殺するための訓練であった。
 昭和十七年十一月、大政翼賛会の宗教報国組織の一環を担うため「日蓮正宗報国団」を全国に結成し、国防献金や僧侶・檀信徒の錬成(米英撃滅思想の徹底)、講演会活動、果ては政府の人口政策に応えんと「結婚相談所」まで開設。
昭和十八年十一月の御大会(おたいえ)は「米英撃滅必勝信念昂揚の御大会」と銘打たれ、御開扉で「国威宣揚皇軍武運長久戦傷病将士全快」が祈念されたほか、現役軍人の講演、報国団幹部による「ユダヤの陰謀について」(報国課長・青山諦量氏)「正義日本の進むべき道」(庶務部長・渡辺慈海氏)などの“布教講演”が行われた。
 昭和十九年一月号の『大日蓮』八面の末尾に、「係り」と称する者が、「あらゆる機会に彼等(英米兵・筆者注)の素ツ首を撃ち落とす機械が必要」なので、献金を呼び掛ける一文を草する。
 昭和十九年の御虫払会に、宗務院名で次のような通達が発せられる。
「 宗内一般
総本山霊寶御虫払会特別法要の儀本年は之を行はず換ふるに三月廿八日より四月三日に至る一週間、左記の如く聖戦必勝国威宣揚、皇軍武運長久、敵米英撃滅の大国祷会を執行候條此段及通達候也」
以上の宗門の戦争協力の実態の一端を垣間見るだけでも、宗門の積極性は明確に「加害者」側のものといえる。この戦争加担の事実を前に、「それでも戦争責任はない」などとは決して言えない。

 また、『特高月報 昭和十七年十月分』を見てみると、鈴木日恭法主や阿部日開元法主が「神本仏迹論」の邪義を唱える小笠原慈聞と交わした往復書簡が載っている。その第四信(昭和十六年八月二十一日付)で日恭法主は「宗祖を本地と云ひ、天照太神を垂迹などと云へば不敬に渡る事故、言ふべからざる事と存候」と驚くべき見解を述べている。

 この日付の前日である八月二十日に、先にも紹介したように、鈴木日恭法主をはじめ元法主や長老たちが集まって開かれた「上老会議」で「神札の受容」「御遺文の削除」「御書の発禁」「観念文の改変」「本地垂迹説の使用禁止」等が決定されている。この事実を考え合わせれば、当時の宗門が治安当局からの弾圧を恐れ、“仏本神迹説は不敬となるから今後は言わない”と明言し、宗祖の国主諫暁(かんぎょう)の御精神を無残にも捨て去り、保身に走ったことは明らかである。

 さらに、何と日恭法主が自ら音頭を取って、「聖上陛下には昨冬(昭和十七年・筆者注)十二月十二日伊勢神宮に御親拝と拝承し奉る、是れ赤子たる我等国民の斉しく恐懼感激する所なり」と、天皇の伊勢神宮参拝を讃嘆する暴挙に出ている。

 他方、創価教育学会の牧口会長と戸田理事長(当時)は、断固神社不参・神札拒否の姿勢を堅持し続けておられたが、宗門側は官憲の弾圧がおよぶのを恐れ、昭和十八年六月、総本山に牧口会長らを呼び、日恭法主ら二上人の立ち会いの下、渡辺慈海庶務部長が神札を受けるよう強要したのである。

 しかし、牧口会長らは神札を受けることを敢然(かんぜん)と拒否された。そして、孤立無援の状況の中でついに逮捕、入獄され、大聖人に連なる殉教の道を堂々と歩まれた。これに対し、宗門は自門の信徒たる学会を登山停止処分にして無関係を装い、同年十一月一日には、宮城遥拝(きゅうじょうようはい)・神社参拝を奨励する院達すら出している。

 大聖人門下たる僧侶が信徒に謗法行為を強要し、従わぬと見るや無慈悲に切り捨てる。そして、仏法を守るべき宗門が仏法を守れず、そのうえ権力者に擦(す)り寄り、結果として戦争の暴走を止めることができなかったのである。

総括なき宗門--弁解と言い逃れの日顕宗
 「時局協議会」の名において出された『日蓮正宗と戦争責任』『「神札問題」について』に示されている見解はおよそ大聖人の仏法を奉じている者のそれとは思えない。例えば

 「結論として日蓮正宗の戦争加担は、国民一般の感覚以上に突出していたとはいえない。また、一切衆生救済の根本尊崇(そんすう)の大御本尊と、一切衆生の信仰を正しくするために、日蓮大聖人から伝えられた教義の秘伝を軍部の圧政と日蓮宗身延派の野望によって破壊侵害されないために、表面上国策に従い、実際にはそれを無効にしたのである」(『日蓮正宗と戦争責任』)
 「御本尊を護ることが、究極的に人類の幸福・世界平和のためであると信じての行動であった。また、現時点の我々から見てもやむないことであったし、その時においての適切な行動であったと信じるのである」(同)
 「ほかの一宗教が滅びるならば、一切衆生のために喜ばなければならない。しかし、日蓮正宗の一宗が滅びることは、一切衆生が、成仏の拠処を失うということである。本門戒壇の大御本尊を身延派の支配下に置き、血脈法水が断絶したならば、一閻浮提の一切衆生の成仏はどうなるであろうか」(『「神札問題」について』)
 「難局における、苦悩のぎりぎりの選択であり、戒壇の大御本尊並びに血脈法水を護るため、止むを得ない深慮の上の行動であったというべきである」(同)
等と述べているが、この主張が、宗門の歴史的事実に反していることは言うまでもない。日蓮大聖人の正統門下を自負する者が、時勢に与同しただけだなどと、開き直るところに、貴殿ら現宗門の無責任極まりない体質が如実に現れている。しかも、「表面上国策に従」ったと自ら認めていることが、宗祖の国主諫暁(かんぎょう)の御精神に違背する大謗法であることを貴殿らは気付かないのであろうか。

 また、この時局文書の中に

 「戦後において、日蓮正宗の僧侶から戦争責任に関する、反省の意見が、これといってないように思えるかもしれない。しかし、現御法主日顕上人猊下は、日蓮正宗の勤行の根本である『丑寅勤行』において、毎日、世界平和を御祈念あそばされておられるのである」
との一文があるが、笑止千万である。貴殿は喉(のど)の調子が悪いと言っては、度々丑寅勤行の途中で退座し、そればかりか、「骨休め」と称しては丑寅勤行をサボってまで遊興に繰り出しているではないか。

 貴殿がこのような、御本仏大聖人の御怒りをも恐れぬ醜行(しゅうぎょう)を平然と働くのは、偏(ひとえ)に無信心に拠るものであることは明らかであり、「毎日、世界平和を御祈念あそばされておられる」などというのは、全くのウソ・ごまかしである。時局文書は、結果として、貴殿が世界平和への努力をさぼり、戦争責任を怠(おこた)っていることをはからずも証明している。

 結局、当時の宗門は国家権力の弾圧を恐れ、皇国絶対思想に迎合(げいごう)し、数々の重大な教義上の「破壊侵害」を自ら積極的に行い、大聖人の仏法の本義を曲げてまで、戦争に加担したのである。

 その理由は、偏に自分たちの保身のためであり、御本仏の門下としてこれ以上卑劣な姿はない。もちろん、現宗門が言っているような「教義の秘伝」を守り抜こうとする自覚など、微塵(みじん)も感じられない。

 我々が、貴殿ら宗門の戦争責任を糾弾して来たのは、偏に「国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁(のが)れん汝須(すべから)く一身の安堵(あんど)を思わば先ず四表の静謐(せいひつ)を祷らん者か」(御書三一㌻)「速(すみやか)に対治を回して早く泰平を致し先ず生前を安じて更に没後を扶(たす)けん」(同三三㌻)との『立正安国論』の御教示を正直に拝した時、宗門が何をしなければならなかったのか、そして今、何をしなければならないのかという信仰の原点に立ち返ることが必要であると確信するからである。

 まさに、世界的規模で三災七難が競い起こっている今、貴殿は「立正安国」を忘れたかのように、何も行動を起こしていない。一切衆生救済という宗祖の御遺命を忘れた所には自行化他にわたる信仰の本義はなく、ただ徒(いたずら)に権威を振り回し信徒を苦しめる姿しか生まれてこない。

 しかし、当時の宗門の僧俗すべてが、国家権力に迎合し、宗祖の国主諫暁の御精神に違背する大謗法を犯したわけではない。

 牧口創価学会初代会長は“今こそ国家諌暁の秋(とき)である”と叫ばれ、大聖人の仰せのままの実践を貫かれた。そして、宗門からの神札を受けるようにとの指示をも断固拒否され、その後も折伏・弘教に邁進(まいしん)された。収監されてからも検事を折伏するという、宗史に不滅の殉教の足跡を残されている。

 当時の鈴木日恭法主は、堀日亨上人や信徒たちから再三「国主諌暁」を勧められ、求められていながら、結局、何も為(な)すことはなかった。

 また、『日恭上人の御師範』と題された宗内文書によれば、当時の宗門は、初めから保身のために、信徒団体の学会を切り捨てようとしていた事実が資料的に証明されている。

 すなわち、昭和十八年二月、当時の日蓮正宗の庶務部長が、第二特高課長に、学会と宗門の関係について「会員のなかに脱線的な分野もあって苛烈(かれつ)な折伏をすることは日蓮正宗の本山が直接は知らないことであり、また正宗の純信者や末寺には不敬の行為は絶対にない」と説明し、学会の行動と宗門との関わりを完全に否定している事実が記されているのである。

 大聖人のお心のままに身命を賭して戦い抜いた牧口初代会長、戸田第二代会長をはじめ創価学会に対して、率直に非を認め反省・懺悔し、責任を明確にすることなくして宗門が大聖人のお心に適(かな)うことはでき得ないことは最早(もはや)明白である。

 更には、今回の創価学会に対する「破門」等の処置、いわゆる宗門問題も同じ根から生じた問題であり、貴殿に大聖人の弟子であるとの自覚がほんの僅(わず)かでも残っているならば、汚れた宗門の体質を引き継ぐものとして、自ら責任をとって退座し、反省・懺悔するしかない筈(はず)である。

 しかるに貴殿は、我々の主張を顧みないだけではなく、去る六月十七日に本山で行われた日恭法主の五十回忌法要で、戦時中宗門が「神札」を受けたことに関して、「(戦時中の神札受容が)良いとか悪いとか、そう簡単に言い切れるものではない」等と発言をしている。

 言い切れるも、言い切れないも、「悪い」ことは誰の目にも明らかではないか。戦後の歴代法主の中で、はたして、こんな反省なき言辞(げんじ)があっただろうか。

 私どもは、宗祖の教えに照らし、僧侶は「有羞(うしゅう)の僧」でなければならないと自戒している。本来、法を守り抜くべき法主が、ここまで恥知らずであってよいだろうか。ここまで法を下げる法主が許されるわけがない。これは謗法に謗法を重ねる行為であり、「仏法破壊」の姿そのものである。決して許されるものではなく、我々は、断固貴殿の即刻退座を要求するものである。

貴殿こそ悪の元凶
<1>所化に軍隊体験を自慢する法主
 さて、前述のように我々は、一昨年、昨年と宗門の戦争責任を糾弾する書面を連続して貴殿に送り続けてきた。ところが、貴殿からの返答は、まったくのなしのつぶてであった。いや、我々は返答を求めているものではない。ただ貴殿が宗門の戦争責任を満天下に謝罪することを求めているのである。

 貴殿が沈黙する理由は、我々が以前貴殿の元で所化の立場にあったという面子(めんつ)の問題でも、また宗門の非を糊塗(こと)し、単に論争を避けようとしているからでもないものと察する。なぜなら、最早、戦前の宗門が戦争に積極的に加担したことは誰の目にも明らかであり、言い繕(つくろ)うことなどできないことは周知の通りである。

 貴殿が“日顕宗”の布教をすることは自由だが、少なくとも戦争責任のある宗門が公式謝罪を抜きに、アジア諸国に布教できないことは、貴殿に分別があれば分かることである。それでもなお沈黙を続ける真の理由が一つだけ考えられる。

 公的立場に就き、なおかつ、先の大戦は侵略戦争ではなかったと「確信」を持って発言する彼の無反省の人たちと根っこは同じである。すなわち、貴殿に戦争を人類の成し得る最大の罪悪と捉(とら)えるヒューマニズムが根本的に欠如しているということである。

 他宗派でさえ、昨今は、多くの宗派が信仰者の立場から、また人道的立場から、戦争に加担してしまった自身の過去に対し、率直なる反省・懺悔の意を表明している。

 貴殿の姿は、それら他宗の姿にも劣る。貴殿には、日本の侵略戦争に対する反省の念など皆無である。その証拠に、貴殿は我々に対し、軍隊生活の体験を自慢する発言を繰り返しこそすれ、貴殿の口からは先の戦争に対する反省の弁、あるいは平和への誓いの言葉など一度も聞いたことはなかった。

 もちろん、貴殿が“私人”の立場で何をどう思うと、すなわち、反省どころか、戦争を礼讃(らいさん)しようと、それはある意味で自由である。しかし、少なくとも、未来の世界広宣流布を担う所化の前で繰り返す発言ではない。まして、戦前の宗門の戦争責任を思えば、その宗門を継承したと自認する貴殿が発言することは、例えて言えば、一国の総理大臣が義務教育の児童を前に軍隊生活の自慢をするようなものである。

 我々は、貴殿が公式謝罪をしない今、あえて、かつて貴殿から聞いた数々の内容の一部を告発し、貴殿の宗教者にもとる無反省な言動を公の場に出し、社会の眼からの弾劾(だんがい)を仰ぎたい。

 ⊥昭和六十三年から平成元年頃にかけて、貴殿は大石寺在勤の所化小僧を大奥に集合させ、何回か「指導会」を持っていた。その折々に、貴殿がよく語っていたのは自身の戦争体験であった。貴殿は次のように語っている。「御本尊は的(まと)だ。しっかり的を拝して題目を唱えろ。銃を打つ時も、的があるんだ」。そう言って、貴殿は自分で銃を構え、狙いを定める格好(かっこう)をして、身振り手振りで、所化たちに説明していた。

 「おまえたちの勤行の姿勢を見ていると、腰が入ってない。もっと腰を入れろ。そんな腰じゃ、銃を打ったら吹っ飛ばされるぞ。ワシは軍隊にいたが、腰をしっかり据えて打たないと、打った瞬間、自分の方が後ろに弾(はじ)き飛ばされるんだ」
宗門の将来を担う所化小僧に向かって、何ら戦争の悲惨さを訴えることもない。逆に、自分が軍で体験した銃の発砲を引き合いにして、信心指導する。また、銃を打ったという経験自体を自慢する。自分の加担した戦争に反省があれば、かかる発言が所化の前で平気で口をつくはずがない。

 貴殿の言葉づかいには、とかく軍国調のものが目立つ。所化小僧には「キサマ」「者ども」「者たち」「お前たち」など、軍隊の上官が下の者を呼ぶような、見下した言い方をする。また、貴殿が以前、『文藝春秋』に寄稿した学会批判手記のタイトルも、今どきめったにない軍国調の「創価学会会員に告(つ)ぐ」であった。

 さらに、学会破門の謀略「C作戦」も、命名者は貴殿であった。まさに戦争気分で謀略を練り、それを「作戦」と名づけたあたりに、貴殿の「タカ派法主」的な性格が色濃く現れている。

 貴殿の暴力に対する感覚は尋常ではない。貴殿はかつて、宗門の未来を担う所化教育の学衆課教師に、戦時中に犯した暴力事件を自慢気に話している。それは、貴殿が海軍時代に三百人の兵士を一度に殴(なぐ)ったとの話である。

 貴殿は「五十人くらいのところで、殴っている手が痛くなってきたが、途中で止められないので最後まで殴ったんだ」と笑いながら、自慢気に話していた。法主という宗内僧俗を教導すべき立場にありながら、貴殿は暴力を否定するどころか、自己の自慢話として肯定している。貴殿のこの発言を聞き、戦争にたいする反省の心を感じ取るものがいようか。

 また、貴殿は所化を目の前にして、度々、戦時下の暴力の話をしている。

 ある時、所化の目通りの席で、当時頻発(ひんぱつ)していた大坊の暴力事件について話をしていた貴殿は、やにわに、「昔は、ワシらの時代にはよくあったもんだ。軍隊なんかでは、上官に『気を付け 歯をくいしばれ 』とよく殴られたもんだ」と話し始めた。何も知らない中学生・高校生を相手に、反戦を説くどころか、まるで旧日本軍を肯定するかのような話をしたのである。

 本来、所化の目通りは公式の指導会であり、そこで話される話は所化に対する“指南”である。徹底して、所化に反戦を教えなければならないはずの貴殿が、旧日本軍を認めるような残虐(ざんぎゃく)な“魔性”発言をしているのだ。

 大坊で暴力が横行し、しかも、勤行の場でも平然と学衆課が所化に暴力を加える本山の異常な状況は、まさしく貴殿の暴力礼讃の性分(しょうぶん)に因を発していると言っても過言ではない。

 貴殿は出陣学徒であり、海軍少尉として、北海道の室蘭に配属されていた。そこでは、米軍の上陸に備え、街の裏山に砲台を造るのが仕事だったという。終戦時には秋田に移り、やはり陣地構築の任にあたっていた。貴殿が、それらの想い出について語る際は、痛恨の情を微塵も感じさせない野卑(やひ)な発言しか残していない。

 例えば、以前、法主として室蘭に親教に来た時、貴殿はこのように語っている。「山の中腹に兵舎があってそこに寝泊まりしていた。麓にタバコ屋があり、いい娘がいたのでよくタバコを買いにいったものだ。はて、どこだったか、あまり変わってしまって分からなかった……」

 また、終戦を迎えた秋田では、将校だった貴殿には宿舎として、町の旅館があてがわれたという。そこでの貴殿の懐古談(かいこだん)は次の通りだった。「その旅館の娘にほれられてね。夜になるとその娘が、オレの布団の中に入ってきたものだった」

 世の戦争経験者の中には、戦死した友人の無念の情を背負い、今の平和な一日一日を噛(か)み締める思いで、生きている人々が多くいる。そんな人情など、どこ吹く風で、下卑(げび)た女色の想い出ばかりしゃべる貴殿は、宗教的感情の著しく欠如した人間と言う以外ない。

 ≡憂宗護法同盟著の『法主の大醜聞』には、終戦後、貴殿が海軍将校の軍服を着て大石寺に復員してきた折、出迎えた政子夫人が「信雄様のお姿が凛々(りり)しくて……」といつまでもあちこちの坊の女性たちに自慢していた様子が書かれている。ところが、この軍服姿の話は、当時だけではなく、法主になってからも話題になっていたのである。

 大奥番が貴殿のそばにいた頃、貴殿と政子夫人の話の中で、夫人が若い頃の貴殿には海軍将校の軍服が似合(にあ)っていたとおだて上げたことが大層(たいそう)気に入り、ご満悦(まんえつ)だったそうである。こんな些細(ささい)なやりとりの中にも、貴殿の無反省ぶりが顔をのぞかせている。

 昭和六十三年、貴殿によって大石寺大坊の御仲居(おなかい)に任命された駒井専道理事は、就任早々、朝の勤行前に全館放送を使って大坊中に軍歌を流すことを提案した。理由は、朝から軍歌を聞かせれば中学生・高校生の所化たちに“根性”ができ、勤行の遅刻者も少しは減るだろうというものだった。

 自分がかつて“小僧係り”として担当した中学生には、毎日のように軍歌を聞かせてきたという体験からの提案ということであったが、我々が見る限りそのように育てられた者たちは、粗野(そや)で、暴力的で、面従腹背(めんじゅうふくはい)、弱い者いじめ等々、豊かな人間性とは正反対の僧侶に育っている。

 駒井氏の、この余りに非常識な提案には呆(あき)れるばかりだが、このような人物を所化教育の責任者に任命したのは、他でもない貴殿であり、貴殿の無認識・無反省が多くの所化たちの心まで蝕(むしば)んでいるのである。

 ある日の大奥での出来事である。目通りが幾つか重なって、何人かの僧侶が順番待ちで、対面所の外で待機していた。その中にいた吉田秀晃氏が、対面所の外に置いてあった黒板にいきなり、「首切り日顕」と書いた。

 貴殿の“首切り日顕”の異名は宗内でもつとに有名であるが、吉田氏は怪訝(けげん)な顔をしている他の僧侶に向かって、「みんな、『首切り日顕』とよく言うが、猊下は坊さんの首だけでなく、戦争で本当に首を切ったんだぞ」と言い放ったのである。

 この事件の真偽は未(いま)だ明らかではないが、このような貴殿の話が宗内に広まる背景には、宗内の戦争責任に対する意識の欠如が横たわっていることは否定できまい。

<2>東南アジアにおける宗門の蛮行
 去る七月八日、韓国・釜山(プサン)地方裁判所において、宗門の韓国指導教師と称する名古屋市・妙通寺の毛利博道氏ら三人に対して、外国為替(かわせ)管理法違反で罰金刑が宣告された。更に毛利氏は査証の発給が停止され、今後一切韓国への入国が禁止されるということが、韓国内はもちろんのこと日本でも広く報道され、大きな波紋を呼び起こした。

 これは、毛利氏らが日本から韓国へ多額の金銭を違法に持ち込んだことが明らかになり、厳しく罰せられたものだが、もともとこの問題は、宗門が韓国の釜山市内に「福祉施設」と詐称(さしょう)して、用途のまったく違う「宗教施設」である「寺院」を建設しようとしたことに端を発している。

 そして、宗門の最高責任者として貴殿が初めから深く関わっていたことは、貴殿がこの「寺院」に「高麗寺」なる命名をしていたこと、宗門海外部長である尾林氏や韓国法華講幹部信徒の文書・発言などから疑う余地がない。しかも、貴殿は当初、自らが偽装寺院に関与していたことを懸命に否定し、卑劣なことに、文書を偽造してまでアリバイ工作をしていたのである。

 これほど韓国の信徒を愚弄(ぐろう)し、韓国という国家と国民を欺(あざむ)くかのごとき社会的に見ても非礼な行為が、あろうことか宗教の名のもとに行われていたということは、貴殿の中に韓国蔑視(べっし)の念があればこそできたものである。

 僧侶を装いながら、醜い心を持ち、自身の謀略に溺(おぼ)れて国法に触れて罪を被り、世間から指弾を受けることなど、「世間の失一分もなし」(御書九五八㌻)と仰せの御本仏・日蓮大聖人のお姿に泥を塗るものであり、「いかなる乞食には・なるとも法華経にきずをつけ給うべからず」(同一一六三㌻)との教えに背く者である。

 その結果は、「法華経に背く咎(とが)重きが故に永く地獄に堕つべしと見えたり、其人命終入阿鼻獄と云へる是なり」(同五五三㌻)と、御本仏の仰せは明確であり、貴殿らはこの一事のみをもってしても、堕地獄決定の大罪人である。

 しかし、更に恐ろしいことに貴殿らの愚行は、韓国のみに止(とど)まるものではなく、その他の国々でも行われ、また行われようとしているのである。

 例えば台湾では、本年一月に“日本花和尚”の見出しで貴殿らの“芸者遊び”“桜伐採”などの行体(ぎょうたい)の乱れが報道された。取り上げられたのは有力紙「聯合(れんごう)報」の紙上で、この「聯合報」は、“台湾の朝日新聞”と称される有力紙であるのみならず、華僑のネットワークを通じて全世界に届けられている新聞である。

 ところが、宗門の月田諭道、堀田信宣の両氏は、この「聯合報」に“芸者遊び”“桜伐採”などについて、虚偽を述べて反論している。しかし、貴殿の芸者好きは宗内でも有名なことであり、また、桜の伐採も事実として行われたことである。まさに宗門は、数えきれない程の人々に向かって自分たちの権威を守らんがためだけにウソをついたのである。

 「但正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ」(同一〇五六㌻)。
もうすでに貴殿らは大聖人の門下であることすら自ら放棄してしまったのか。

 自分たちの都合しか頭になく、日蓮大聖人の信仰の本義を忘れた貴殿らにとっては、布教というのは大聖人の仏法を広めることではなく、自分たちの都合を信徒に押し付けることなのであろうかと疑わざるを得ないのである。

 六十六世日達上人の「日蓮正宗の教義が、一閻浮提に布衍(ふえん)していってこそ、広宣流布であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが、一閻浮提に広がっても、それは、広宣流布とはいえないのであります」との御指南は、現在の貴殿ら宗門に対しての厳しい警告だったと思えるほどである。

 貴殿ら宗門は、韓国・台湾だけを例にとって見ても、布教と称してこれほどの倒錯(とうさく)をしているのである。そして他の東南アジア各国を始め世界の国々でも、貴殿らの行為は「大聖人違背」「仏法破壊」「広布妨害」に他ならない。それはまた、それぞれの国々の民衆を苦しめることに直結しているのである。

 貴殿に宛てた昨年の文書の中で我々は、創価学会の歴代会長が反戦平和の実践を貫き、更に全世界のSGI会員が献身的に平和の行動を貫いているからこそ、各国SGI組織が世界の民衆から信頼されていることに言及した。反対に、戦争責任の謝罪なき宗門が海外布教を企(たくら)むこと自体、資格など全くないことを宣告した。

 次いで、「貴殿らの行為はこれらの国々に再度大変な苦しみをもたらすにちがいないのである。このような貴殿らの無責任な蛮行(ばんこう)は、仏法を奉じる者として決して許されるものではなく、我々は貴殿らの海外布教からの速(すみ)やかな撤退を断固ここに要求するものである」と述べたのである。

 にもかかわらず貴殿らは、無視し続け、何の反省もないばかりか、世界の人々--なかんずく最も真摯(しんし)に反省し、懺悔しなければならないはずの相手であるアジアの民衆--を現在も欺き、愚弄し、利用し続けている。

 もう貴殿らには、海外布教の資格などまったくないどころか、御本仏の弾呵(だんか)と世界の民衆からの弾劾が待っているであろうと断言するものである。

<3>邪宗にも劣る「卑怯者」法主
 「これを一言も申し出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし、いはずば・慈悲なきに・にたりと思惟するに法華経・涅槃経等に此の二辺を合せ見るに・いはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ、二辺の中には・いうべし」(同二〇〇㌻)
“言うべきことを言わないのは「卑怯者(ひきょうもの)」である”と、牧口初代会長も喝破(かっぱ)されている。結局、誤った宗教をもって民衆を不幸に導き、多くの生命をも奪った国家や指導者に対して、言うべきことを言わなかった鈴木日恭法主はじめ当時の宗門は、卑怯の心故に堕獄の因を積んでしまったことは明らかである。

 同時に、現在の自分たちの権威を保つために、何の反省も懺悔もない貴殿もまた「卑怯者」である。むしろ、戦中と異なり、何も恐れるべき状況でないにもかかわらず、卑怯な沈黙を続けている貴殿もまた、堕地獄必定であることは言うまでもない。

 「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」(同一二八二㌻)と、大聖人は意気地無しの「臆病者」は我が弟子にあらずと厳しく弾呵しておられる。言うべきことを言わないのは、臆病の心に支配されて言えないからでもあろう。そして臆病なるが故に、自己の保身の為に権威・権力をもって人間を縛り、利用し、自己の思うがままに動かしたいと考える。まさに貴殿の現在の行動そのままであり、貴殿はもう大聖人とは縁もゆかりもないという他ない。
 「小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬがれず、大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ」(同九三〇㌻)。
 身延山久遠寺を中心とする日蓮宗でさえ、戦後、昭和二十二年には反省・懺悔の心をもって宗祖と国家に対して謝罪を表明しているのである。身延にできて何故大石寺ではできないのであろうか。

 ましてや今年は戦後四十九年、いわゆる五十回忌の年である。国内では、沖縄・広島・長崎等の地上戦や原爆で大きな被害を受けた都市をはじめ様々な所で追悼の行事が行われている。また、海外でも来年の五十周年に向け、数多くの反戦平和を訴える企画が進行している。全世界が改めて悲しみを乗り越えて、平和建設に向かうこの時期にあって、先ほども述べたように、貴殿は戦争中の宗門の悪行をごまかそうとしているのである。

 重ねて貴殿に要求する。これ以上、大聖人の仏法に傷をつけないためにも、直ちに退座せよ。そして袈裟(けさ)・法衣を脱いで還俗(げんぞく)せよ、と。

*おわりに
 我々は、離山をしてから今日の間、日本全国のあらゆる地域で多くの方々と語り合い、共に戦い、共感しながら進んでくることができた。学会員の方々はもちろんのことだが、信仰の次元は異にする人々とも人間として語り合ってきた。また、国内に止まらず世界の国々でも多くの友人を得ることができた。

 我々が、大勢の方々と友情を結ぶことができたのは、僧侶が上で信徒は下などという信徒蔑視、人間蔑視の考え方を完全に投げ捨てているからである。

 そうした活動を続ける中で、まだまだほんの端緒だが、アジアの国々で、また世界中の国々で、戦争によって受けた物理的・精神的な傷によって苦しんでおられる多くの方々ともふれあうことができた。

 各地でのホロコーストの実態などに触れるたびに、言い様のない悲しみと怒りが身体の底から噴き上がってくるのを覚え、改めて戦争がどれ程恐ろしい狂気の行為であるかを実感した。その実感の上から、貴殿らが戦争に加担していながら、謝罪どころか、反省する気持ちさえも持っていないことに、心の底からの怒りを覚える。

 たとえ物理的な傷は癒(い)えたとしても、人間によってつけられた心の傷はなかなか癒(いや)すことはできない。地上から一切の悲惨を無くしていこうと、共々に反戦を誓い、平和への行動を約束しあう、根気強い語らいを続けてきたのが、創価学会の同志である。その励ましがあったればこそ、一人ひとりが御本尊への信仰を通して蘇(よみがえ)ることができたのである。

 池田名誉会長と創価学会・SGIのメンバーには、常にそうした人々を蘇生へ幸福へと導く民衆救済の為の徹底した“行動”があった。言葉だけではなく、行動を通しての世界平和構築の戦いがあったのである。

 貴殿はどうしてそれを認めようとしないのか。正しい平和への行動に対して“宗派”を越えて、人道的な見地からも評価できない貴殿の「狭量(きょうりょう)」さには、世間の人も呆(あき)れている。貴殿が法主を続けている限り、宗門は世界の笑い者になっているのである。

 貴殿はよく言う。「立正安国」といっても、「安国」の実践では駄目(だめ)だ。「立正」がなければならない、と。この一見、正論風に装う貴殿の言い方こそ実は詭弁(きべん)である。

 すなわち、「立正」と言うのなら、貴殿はいったい「立正」のために何をしたのか。「立正安国論」をもって国主諌暁をしたというのだろうか。いや、「諌暁」ではなく「対話」だと言うのであれば、世界の識者はおろか、これまで貴殿はいったい誰と「仏法対話」をしてきたのであろうか。

 貴殿は何をしてきたのか、何を発言し、どういう行動を起こしてきたのか。実際に「立正安国」の実現の為(ため)に何の行動もしていない貴殿らには何も言う資格がないことを知るべきである。ましてや現実に「立正安国」を目指して前進する団体を「破門」したり、リーダーを「信徒除名」にして謗法呼ばわりするなど、「立正安国」を阻(はば)む師敵対の仏敵の姿である。

 インド文化関係評議会のバサント・サテ会長が、先日語っておられた。「現代社会にはさまざまな『悪』がある。『悪』や『残虐』や『迫害』と戦わないのは、非暴力の最悪の形態である。『忍従』は『悪』である」との言葉が深く胸に突き刺さってくる。

 我々は、大聖人の仏法を奉ずるSGIとともに、世界平和を目指し「立正安国」の大道を歩んで参りたい。そして、悪逆非道の貴殿が退座するまで、その袈裟・法衣を剥(は)ぎ取る日まで、「願くは我が弟子等は師子王の子となりて群狐に笑わるる事なかれ、過去遠遠劫より已来日蓮がごとく身命をすてて強敵の科を顕せ・師子は値いがたかるべし」(同一五八九㌻)との御聖訓のままに、貴殿の大謗法・極悪の姿を弾劾し続けることを改めて宣明するものである。

一九九四年八月十五日
青年僧侶改革同盟
日蓮正宗管長 阿部日顕殿