特集 – 日顕らは法主弾劾者の末裔。日柱追い落とし事件

新改革通信 32号(2005.12.07)

歴史は真実を語る。日顕らは法主弾劾者の末裔(1)
日柱追い落としに加担した歴代法主も三宝破壊の者か?

〃日顕チルドレン〃とも言うべき、「邪義破折班」は改革同盟の松岡雄茂氏に対する文書の中で、盛んに法主無謬論を唱えている。

たとえば彼らは「そもそも御歴代上人が〃大聖人、日興上人の正しい教義から逸脱〃することなど絶対にあり得ない」と断じている。そして法主を批判することは血脈を否定し、〃三宝を破壊する〃ことだと繰り返している。

彼らは日顕を擁護するために、〃法主無謬〃を叫んでいるが、彼らが法主を祭り上げ、それを批判する者を貶めれば貶めるほど、日蓮正宗そのものを崩壊させてしまう結果になることに、気付いていない。正宗の歴史よりも日顕を守る。だから日顕宗なのである。

さて、今から八十年前、五十八世日柱法主は宗会により不信任を決議され、辞任に追い込まれたが、日顕の父、阿部法運こと日開がこの事件に深く関わっていた。宗門の論理で言えば、日顕の父・日開も三宝破壊者になる。

それだけではない。この日柱法主の追い落とし事件に加担した者の中には、六十一世日隆法主や六十四世日昇法主、学頭・早瀬の祖父にあたる早瀬慈雄も含まれている。

法主を批判することが三宝破壊になるなら、六十世、六十一世、六十四世は三宝破壊者が法主になったという恐ろしい事例になってしまい、さらには現・法主と次期法主は両名とも、三宝破壊の末裔となり、宗門はまるで三宝破壊者の巣窟になるではないか。

「邪義破折班」の自宗破壊の暴挙に対し、日柱法主の退座にまつわる宗史を紹介する。

大正十四(一九二五)年十一月十八日、宗会の初日に、二十四名の僧侶が日柱法主を追い落とすための「誓約書」に署名した。

署名した僧侶は、宗会議員や評議員であった以下の僧侶である。

下山廣健、早瀬慈雄(早瀬学頭の祖父)、宮本義道、小笠原慈聞、松永行道、水谷秀圓(六十四世日昇法主)、下山廣琳、福重照平、渡邊了道、水谷秀道(六十一世日隆法主)、井上慈善、高玉廣辨、太田廣伯、松永行道、富田慈妙、松本諦雄、西川眞慶、有元廣賀、坂本要道、中島廣政、相馬文覺、佐藤舜道、白石慈宣、崎尾正道。

今の宗門の住職の中には、この署名者の血を引く者が大勢いる。法主無謬論を信奉する「邪義破折班」にいる阿部正教は、この事件の黒幕の阿部法運のひ孫にあたる。

それでは、この「誓約書」がいかに辛辣に法主を批判しているか、じっくり見てみたい。(続く)

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新改革通信 33号(2005.12.07)

歴史は真実を語る。日顕らは法主弾劾者の末裔(2)
三宝に誓って、法主批判。誰も法主を僧宝と考えていなかった

「誓約書」の始まりはこうである。

「現管長日柱上人ハ私見妄断ヲ以テ宗規ヲ乱シ、宗門統治ノ資格ナキモノト認ム、吾等ハ、速カニ上人ニ隠退ヲ迫リ宗風ノ革新ヲ期センカ為メ、仏祖三宝ニ誓テ茲ニ盟約ス」

法主を批判するのに「仏祖三宝ニ誓テ茲ニ盟約ス」とあるではないか。すなわち、当時の宗門では誰も法主を三宝の一つとは認識していなかったということである。もし、彼らが法主を僧宝とみなしていれば、こんな文章を書くわけがないではないか。

日顕らはこの事実をどうみなすのか。この「契約書」を歴史の事実として認めるならば、宗門の伝統において、法主は僧宝ではなかったということになる。

〃いや、法主は僧宝であり、無謬である〃と断じるならば、この「契約書」に署名した六十世、六十一世、六十四世の歴代法主が三宝破壊の罪を犯していたことになる。

この「誓約書」には八項目にわたって日柱法主への批判が書いてある。

一、 大学頭ヲ選任スル意志ナキ事。

これは日柱法主が猊座に居座っていることを暗に批判したものである。近代の、法主の相承の次第を見ると、日顕とは異なり、時期法主はまず大学頭に任じられている。

当時の宗会は、日柱法主が大学頭を選出しないのは、次期法主を選出しないという意味であり、猊座にしがみついていると、批判しているのだ。当時の宗会は、色々と問題のあった日柱法主を一刻も早く退座させたかったのであろう。

先日、十二月一日に、日顕が総監の早瀬を学頭に任じたのは、このような近代の相承の次第を気にしているからだ。自分には何の次第もないので、せめて次を譲るときには形だけでも取り繕うと考えたのだろう。しかし、日顕自身の相承の証明ができない限り、こんな形式など無意味である。

日達法主の時代までは、宗会が管長の不信任を決議することができた。このこと自体が、法主が無謬でないことを証明している。悪い法主を排除しなければ、正法を守ることができない。それが開山・日興上人の厳格な遺誡である。

ところが日顕は宗制宗規を変更し、宗会を無力化してしまった。悪法主が出現しても最早、宗門には自浄する手立てがない。立宗以来、最悪の状態にあるのだ。(続く)

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新改革通信 34号(2005.12.08)

歴史は真実を語る。日顕らは法主弾劾者の末裔(3)
山寺に閉じこもり、所化の興学布教の道を閉じた日顕

日柱法主は、大学頭を選出しないだけで、当時の宗会から責められたが、日顕の強欲さに比べれば小さな問題に見える。日顕は「宗規」を変更して、〃自分が辞めると言うまでは退座しなくても良い〃というようにしてしまった。こんな暴挙は宗門の歴史にない。

そこまでして猊座にしがみついてきた日顕であるが、腰を悪くして本尊書写もままならない状態になり、ついに〃退座〃をほのめかした。我欲に執着して罰を現じた、因果応報の姿である。

「誓約書」を続けて見てみる。

二、興学布教ニ無方針ナル事。

 当時の宗会は日柱法主が興学布教に無方針であったことを批判している。たしかに布教は宗教の命である。それに対して無方針であれば、責められて当然であろう。

〃法主が間違いを犯せば、それを指摘する〃 これが当時の僧侶の常識であったのだ。

日顕の場合はどうか。社会的に認められない大学科を設立し、無理やりに所化を入学させている。興学布教を自分の名誉欲のために利用しているのだ。しかも、大学科を維持させるために毎年、数十名の得度者を採り、住職になれない無任所を大量生産させている。

日顕は〃大学科の設立は快挙である〃と一人で悦に入っているが、「大卒」の資格を得られない所化は憐れとしか言えない。授業を教えている者たちも、正式な資格を持った者たちではない。明確な基準もなく、あいまいに選出された住職が自己流で法門を教えているというのが実態である。所詮、私塾の域を出ない、日顕の自己満足の機関なのである。

そのうえ、日顕は教師たちが一般大学の大学院に進むことに対しても〃意味がない〃という態度をとっている。これは日顕の〃学者コンプレックス〃から来ているものであろう。立正大学の講師の経歴を持つ日亨法主に対して、日顕が常に批判的な理由も、このコンプレックスから見るとよく分かる。博士の資格を持つ改革同盟の松岡氏に対して、日顕が執拗に批判を繰り返していることも同じ理由であろう。

日顕は、宗門という閉鎖された小さな世界でしか通用しない制度を造ってしまった。日顕自身も山寺に閉じこもって王様を気取っているが、未来ある所化たちまでがその犠牲となり、正規の大学への進学の道だけではなく、社会へ開く布教の道までが閉ざされてしまったのである。(続く)

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新改革通信 35号(2005.12.08)

歴史は真実を語る。日顕らは法主弾劾者の末裔(4)
私怨と私欲で固められた、日開・日顕―謀略の血脈

三、大正十三年八月財務ニ関スル事務引継ヲ完了セルニモ不拘、今ニ至リ食言シタル事。

これは代替法要の四カ月後のことである。日柱法主が退座する際に作成された「契約書」に、
「御慰勞トシテ金五千四百三十圓を奉呈スベシ 但シ内金二千四百三十圓ハ崎尾前理事々務引繼ノ際ニ生ジタル財務部及内事部ノ缺損ヲ補償スルコト」
とある。

事務引継ぎの中で、金銭的な問題が発生し、日柱法主に二千四百三十円の支払いを迫ったことがわかる。当時の宗会の追及が徹底していたことが伺える。法主誤謬などとは、彼らは微塵も考えていなかったに違いない。

四、阿部法運ニ対シ強迫ヲ加ヘ僧階降下ヲ強要シ之ヲ聴許シタルコト。

さて、興味深いのがこの項目である。この「誓約書」になぜ、阿部の名が出て
くるのか。

日顕の父である阿部法運は、この宗会の約四カ月前に日柱法主より処分され、総務の職よりはずされただけではなく、能化より降格されていた。当時、能化の地位を失うということは管長候補者としての資格を失うことを意味していた。この阿部の処分は日蓮宗系の学者との問答で、阿部が失態を演じたことが原因であった。

要するに阿部は日柱法主に対して恨みを抱いて報復しようとし、宗会がそれを支援したの である。当時の宗会に対して阿部が強い影響力を持っていた証拠である。

日顕は平成四年八月の教師講習会で「日柱上人が深くお考え遊ばされてですね。やはりこれはわしが退こうと、こう思われたということですよ」と述べたが、これは父親を庇うための虚言である。

「川辺メモ」で明らかになったように、日顕は「Gは話にならない」「人材登用、秩序回復等全て今後の宗門の事ではGでは不可能だ」と日達法主を馬鹿にしていた。その背景には日達法主が日顕を信用せずに遠ざけていた事実がある。

日開が日柱法主を恨んでいたように、日顕は日達法主を恨んでいた。だから、その報復として日達法主の時代に建立された建築物を悉く破壊していったのである。

日開は宗会を使って日柱を追い落とし、まんまと六十世の地位を手に入れた。
日顕は日達法主の突然の逝去を利用して猊座を盗みとった。謀略の血脈が日開から日顕に脈々と流れていることだけは間違いない。(続く)

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新改革通信 36号(2005.12.09)

歴史は真実を語る。日顕らは法主弾劾者の末裔(5)
宗会を無力化し、恐怖政治で宗門を私物化した日顕

以下、「誓約書」の続きである。

五、宗制ノ法規ニヨラズシテ住職教師ノ執務ヲ不可能ナラシム。

六、宗内ノ教師ヲ無視スル事。

七、自己ノ妻子ヲ大学頭ノ住職地タル蓮蔵坊ニ住 居セシムル事。

八、宗制寺法ノ改正ハ十数年ノ懸案ニシテ、闔宗ノ熱望ナルニモ不拘何等ノ提案ナキハ一宗統率ノ資格ナキモノト認ム。

(五)に関しては、日柱法主が宗制を無視していること、(八)に関しては、日柱法主が宗内改革の意識がないことが指摘されている。

日顕の場合はさらに性質が悪い。宗制宗規を自分の都合の良いように改悪し、宗会さえも無力化させた。今や、宗会は単なるお飾りである。

(六)の項目と同じように、日顕は宗内僧侶の意見など全く聞かない。それどころか、意見をする者がいれば、〃法主を誹謗した〃と宗規に則り、擯斥に処せられてしまう。日顕は恐怖政治を敷き、宗門を私物化してしまったのである。

(七)を読めば分かるように、当時の宗門では公私の区別に厳しかった。日柱法主が学頭を任命していなかったため、蓮蔵坊が空いており、そこに日柱法主の妻子が住んでいたのである。そのことを宗会が糾弾したのだ。

当時の宗会がもし、今の日顕の生活ぶりを見たら、仰天するだろう。日顕の妻・政子や娘・百合子が頻繁に大奥に出入りし、バーベキューパーティをしている。もっと驚くべきことに、満山供養の後などに日顕に差し出された供養袋を大奥の奥で開ける際に、政子たちが立ち会っている。日顕ファミリーは宗風を完全に破壊した。

話を戻すと、宗会は筋書き通り、二十日に日柱法主の不信任を決議して、辞職を勧告した。この問題は文部省をも巻き込みながら、宗内抗争に発展する。大石寺は二つに分かれ、泥沼の争いを始めた。

日柱法主擁護の信徒たちは、『正邪の鏡』という冊子を発行して、宗会の僧侶たちを糾弾し、反日柱派の僧侶たちは『正鏡』という冊子で応戦した。その『正鏡』にこうある。

「正邪の鏡には、聖訓を引て『少欲智足』有羞眞實正直等を以て僧侶の本分を説き、而して全宗門の僧侶を以て悪僧獅虫と評し、日柱上人を以て、少欲智足等の四義整足せる聖僧智識と推賞せられてあるが。同上人は全く全身汗を流すことであらう、何となれば私利、強慾、横暴、無愧、食言、無慈悲等は、同上人の特長であるからである」

実に辛辣な言葉で法主を攻撃している。たとえ法主でも誤りがあれば正す―当時の宗門の僧侶はそれが正義であると信じていたのだ。(続く)

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新改革通信 37号(2005.12.09)

歴史は真実を語る。日顕らは法主弾劾者の末裔(6)
「大御本尊以外に相承を認める必要はない」と談じたのは誰か

大正十四年十二月四日、日柱法主擁護派の信徒四人が、本山の寂日坊で水谷秀道(後の六十一世日隆法主)ら反日柱派僧侶の代表五人と問答し、その内容が『正邪の鏡』に公開された。これがその文章である。答えているのが僧侶側である。

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問、法義に照し、宗制に鑑みて僧徒が法主を排斥することが絶対に出来ない様に思ふ。法主の真意に基かずに、法主の位地が代ることになると、それは血脈相承が断絶することを意味する。さすれば
一、宗門の生命が断絶され
二、六百年来の光輝ある宗門の歴史が抹殺され
三、信心の大道が切断され
ることになる。これ大事の中の第一の大事でなくて何んであろう。もし甚深なる法義があるなら説示して頂きたい。

答、管長は法主ではない。従来管長を法主と崇めたのは全くの誤である。開山上人の二十六ケ条に
時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。
衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事
とある。殊にまた、聖訓に
但し師なりとも誤ある者をば捨つべし。又捨ざる義も有るべし。世間仏法の道理によるべき也 とある。之等の教訓によると管長は法主に非るは勿論である。従って衆議に基いて排斥して一向に差支がない。

問、然らば、管長は僧徒の衆議によりて左右さるるのみで、其所(そこ)には大聖人の仏智を認められないことになる。即ち管長が本仏の勅によって任免さるるのでなく、ただ単に僧徒のみにより動かされる事になり、嫡々相承の大義が失はれ、全く民主主義による米国大統領の如きものになるが如何。

答、戒壇の大御本尊さへ御在しませば、それで充分である。それ以外に相承を認むる必要もなければ、また管長の真意を顧みる要もない。

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〃僧徒が法主を排斥することが絶対に出来ない〃、〃法主を批判することは血脈相承が断絶すること〃。この日柱法主擁護派の信徒たちの主張は、「邪義破折班」のそれとそっくりである。

問答の相手をした五人の僧侶の中に、後の六十一世日隆法主がいる。もちろん、日顕の父・日開も反日柱派だから、同じ見解であったということになる。その僧侶たちが、「管長は法主ではない」「排斥して一向に差支がない」「戒壇の大御本尊以外に相承を認める必要がない」と言い切っているのである。

「邪義破折班」の論によれば、日開以降の歴代法主は、血脈否定の大謗法者になるではないか。破折班の根拠、総崩れである。(続く)

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新改革通信 38号(2005.12.13)

歴史は真実を語る。日顕らは法主弾劾者の末裔(7)
日顕の相承が証明されない限り火種は残る。時限爆弾と同じ

日顕が今月中に早瀬に相承する計画が進行している。猊座を盗み取った日顕の時は、もちろん何の儀式もしていない。だから、ムキになって、大々的に儀式を執り行うであろう。

しかし、問題は「相承箱」である。日顕の手元には「相承箱」がないと言われている。もし、本当にないのなら、新しく作るか、それとも「相承箱」なしで儀式を行うか、どちらかしかない。もし、新しく「相承箱」を作れば〃ニセ相承〃と言われるし、「相承箱」なしで行えば〃ウソ相承〃と言われるであろう。

ただ、今回、日顕が退座すると言い出したのは、大宣寺から「相承箱」を取り戻したからではないかという噂もある。たとえば、様々な条件で折り合いをつけたのではないかとも言われている。密約の証拠を大宣寺が握っていれば、そういうこともあり得るだろう。

一時期、次は八木ではないかと噂されていたことがある。八木は日顕の弟子であるから、八木に相承すれば、確実に日顕の息子・信彰に渡るからだ。しかし、今回、早瀬が学頭になったことで、次期法主は早瀬に確定した。そして、八木は翌二日付けで法道院主管に任じられた。

このことから予想できるのは、早瀬―八木―信彰、という相承の流れだ。ただし、この順序は、早瀬次第であるとも言える。

今回、早瀬が時期法主に選ばれた理由は色々考えられる。宗務院の教師たちや全国の支院長クラスには法器会出身者が多い。だから、早瀬でなければ、宗内を押さえられないという見方がある。

特に本山への振込み供養の件で、援助寺院の住職たちには相当の不満が溜まっている。人望のない八木では、宗内を押さえるどころか、逆に下から突き上げられる可能性がある。喧嘩の強い〃ブクロの寛ちゃん〃なら、正信会の時のように、脅しが効くかもしれない。

ただ、早瀬が必ず、八木に譲るという保証はない。おそらく、日顕は自分の生きている間に、早瀬から八木に相承させようとするだろう。

しかし、日顕のおかげで、今や、法主は絶対的な権力を持つようになった。いわば、〃信仰〃を拠点にして成り立っていた法主の地位を〃法律〃によって権力化したのである。絶対的な権力を手に収めた早瀬が、いつまでも日顕の言うことを聞くとは限らない。

日顕がそうだった。法主になる前は、学会に対してペコペコと頭を下げていた。ところが、権力を手に入れた途端に本性をむき出しにして、権威を振りかざして来た。

もし、早瀬が日顕の業績を否定し始めたらどうなるか。日柱法主の時のように、宗内が紛糾するかもしれない。歴史は繰り返すのか。

日柱法主の辞職問題で紛糾していた日蓮正宗に対して、文部省宗教局は選挙によって管長を選出することを決定した。

しかし、大正十五年一月二十五日、日柱法主が、「日柱以外の何人が当選されたとしても、日柱は其人に対し、唯授一人の相承を相伝することが絶対に出来得べきものでない事を茲に宣言する」と、〃相承拒否〃を宣言した。

このような日柱法主の抵抗の中、二月十六日に管長選挙が行われた。結果は日亨法主の勝利で終わったが、日柱法主擁護派が、〃日柱法主が辞表を書いたのは脅迫によるもの〃と、宗会議員らを告訴した。泥沼の戦いである。この最悪の事態を治めたのは、文部省宗教局長による調停であった。

かつて、早瀬に近かった河辺が「六十七世はいないんだ」と言ったが、早瀬がもし同じことを言い出したら、どうなるか。〃「C作戦」、学会破門、正本堂破壊、すべて日顕の独断で行われたが、あれは間違いだった〃と早瀬が絶対に言わないとは、誰も断言できないだろう。

仮にそのようなことが起これば、日柱法主の時のように日顕の弟子たちによって、クーデターが起こるかもしれない。法器会と日顕の弟子らが争うことがあるかもしれないし、妙観会と法器会が手を結ぶかもしれない。今の宗門では、何が起こっても不思議ではない。

また、今回の相承の儀式で、相承箱が大宣寺から〃お出まし〃になったならば、日顕や早瀬に対して大宣寺は相当な優位性に立つ。いつでも、ニセ相承を証明出来るからだ。あるいは、今回本物の相承箱が出現しなければ、早瀬の代に、「相承箱」を持つ者が現われて、〃私こそ、正統の血脈保持者です〃と言い出すかもしれない。そうなるとどうなるか?

早瀬も日柱法主のように、〃相承拒否〃をして、南北朝時代のように、宗内に二人の法主が登場するのであろうか。

要するに、日顕退座後も、日顕自身の相承が証明されない限り、つねに日顕の相承を否定するものがあらわれるだろう。火種は永久に消えない。「相承問題」はまるで時限爆弾である。いつ、爆発するかわからない。

日顕が年内に早瀬に相承したとしても、代替法要は明年四月になるはずだ。その四ヶ月の間に何が起こるか、誰にも予想がつかない。無事に、四月を超えたとしても、いつまた、〃日顕には相承がなかった〃と言い出す者が現われるか分からない。日顕は死ぬまで怯えながら暮らすことになる。

大聖人は「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」と明確に仰せになられている。日顕がどんな形で相承しようとも、信心なき所業は自界叛逆につながるだけである。(終わり)

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