新・改革通信 NO.109 (2011.10.13) 宗門の想定外だった、日寛上人御書写の御本尊授与
宗内の多くの僧侶は
「いくら創価学会でも、御本尊がなければ、音をあげて謝罪して来るだろう」
と考えていた。
彼らが驚いた理由は、創価学会の授与の形式が、誰も想定していなかった、宗門の古来からの”通常の方法”だったからだ。
「たしかに、昔は、東京の末寺が同じように、歴代法主の本尊を授与していた」
「寛尊の本尊では、何も言えないな」
これが大方の感想だった。
しかし、日顕らは”在家のくせに本尊を授与するとは、許せない”と、僧俗差別の感情から、躍起になって、攻撃材料を探し始めた。
しかし、この「一機一縁」理論は、まったくのねつ造である。
本来、大聖人が顕わされた一閻浮提総与の大御本尊以外の御本尊は、特定の門下に与えられたものなので、「一機一縁」の本尊と称する。すなわち、戒壇本尊とそれ以外の本尊の違いを説明するために作られた言葉が「一機一縁」である。
しかし、歴代法主の御本尊は、それが誰に授与されたにせよ、あくまでも戒壇本尊を書写したものであり、すべて「一切衆生総与」の御本尊となる。
たとえ、日寛上人が浄圓寺住職に与えた本尊であっても、大御本尊を写したものである限り、誰が拝しても功徳は同じである。もし、それを否定するのなら、大御本尊否定である。
日顕らは、信仰の根本である本尊を、信徒脅しに利用するから、本末転倒して、大聖人の教えに背いたことを言い出すのだ。
そういう事例は多々あるが、今回の宗門のように、信徒を脅すために、御本尊を利用したことは、今までに例はない。日顕が初めてである。
日顕は「創価学会の本尊は血脈がない」と言うが、大聖人は、「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとするに」と仰せのごとく、民衆の一人一人が直接、御本尊から血脈を受けることができるように、御本尊を顕わされた。それ以外の血脈など不要である。(続く)